念慶寺縁起(34)東西分派㉔教如の本願寺継職と再流浪(4) | 速水馨のブログ

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仏教をテーマ、学んだこと、聞き得たこと、実践してみたことを少しずつ綴ります。

 教如の隠居屋敷は、堀川七条の本願寺(現在の西本願寺)の北に位置する「北ノ御所」であった。

 隠居に当たって秀吉から十一カ条の非が咎められ、その一つに教如の側室抱えなどの不行儀が挙げられていたため、当事者である教寿院(おふく)は、長沢御坊の福田寺に預けることとなった。この福田寺は念慶寺と本願寺をつなぐ窓口となった寺院である。この後、教寿院には女子が誕生し、その女子が第十三代宣如の産みの母となる。

 隠居した教如は、僧分の家臣ではない、門徒による家臣団を登用し、全国の求めに応じて法宝物下付を継続した。大阪御堂筋の難波別院(南御堂)の梵鐘に教如は「大谷本願寺」を刻んだ。隠居から3年後となる文禄5年(1596)の銘である。法宝物の授与は本願寺宗主の権限であり、「本願寺釋教如」の名を記している。教如は依然として宗主の意識を持ち、大坂本願寺ゆかりの地に一寺を建立することでこれを内外に示そうとしていたのである。

 

▲大谷本願寺の銘が刻み込まれた梵鐘(真宗大谷派難波別院)

 

 このころ、近江では大坂拘様やその後の流浪を支えた慈敬寺(堅田から高島へ移転)が教如の動きを支援し、北陸の加賀・越中では教如派と准如派で対立が激化、三河では教如派で結束が固められ、准如派とならないことが誓約されている。

 秀吉により隠居に追い込まれた教如であったが、各地の教如支持は高まっており、大坂拘様によって生まれた内部分裂が強制隠居により露わになったと言えよう。

 

▲下寄十三日講に送られた教如寿像(湯次方蔵)

 

 

 湖北では信長と戦った石山合戦(大坂本願寺)で密かに本願寺支援を協議する総会所が設立されていたが、慶長元年(1596)、城主不在となっていた長浜城内に移った。ここで毎月14日に僧侶・門徒が集まる「十四日講」が営まれ、教如の消息(手紙)を拝読して信仰や結束を確かめあったという。この絵所が現在の長浜別院大通寺へとつながっていく。また、湖北で最も古い講組織である「下寄十三日講」は、慶長6年に教如より顕如絵像の下付を受け、浅井町の湯次では教如寿像の下付を受けている。これらの絵像や法宝物は講を組織する寺院で「まわり仏」として巡回し現在も講が営まれている。

 秀吉の裁定にも拘らず、湖北は教如支持でほぼ一本化しようとしていた。

(つづく)

参考文献

 安藤弥「本願寺教如ーその生涯と歴史的論点」

 吉井克信「教如とおふく」

 図録「湖北真宗の至宝と文化」