念慶寺縁起(33)東西分派㉓教如の本願寺継職と再流浪(3) | 速水馨のブログ

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仏教をテーマ、学んだこと、聞き得たこと、実践してみたことを少しずつ綴ります。

 豊臣政権と本願寺教団は、常に緊張関係の中にあった。秀吉の九州出征に際して父顕如の名代として、教如は陣中見舞いに赴いているが、人質を取られた上での行動であった。

 そのような制約を受けながら教如は、秀吉から本願寺継職認可を受けた。教如はただちに家臣団の再編成に着手する。顕如に勘気(義絶・追放)を受けていた下間頼龍を呼び戻し、反教如を標榜する下間仲之を解任。そして、大坂拘様(かかえざま)から教如を支持したことで疎外されていた摂津の教行寺、堅田の慈敬寺に安堵をもたらすなど、着々と教団体制を整えていった。

 しかし、文禄2年(1953)9月、文禄の役(朝鮮出兵)の拠点である九州から戻り、有馬で湯治をしていた秀吉のもとに、教如の母・如春尼が極秘に訪ねてきた。そして、長男教如ではなく、三男准如に本願寺を譲るとした顕如の譲状があると訴えたのである。

▲顕如と如春尼連座像

 

 

 

 この譲状は現在も西本願寺に残されているが、古来、偽作であるというのが定説である。しかし教如への譲状がないもの事実である。

 この疑わしい状況をチャンスとして捉えたのが秀吉であった。

 閏9月、秀吉は教如や主要な家臣を大坂城に呼びつけ、教如に対し十一カ条の非を示して、十年後に宗主職を譲ることを迫ったのである。

 なぜ秀吉が殊更に本願寺の継職問題に介入することができるのかと言えば、本願寺が顕如の時代に勅許によって認められた門跡寺院になったからであった。そのため、門跡寺院の存続問題には天皇家やそれに準じる権威(関白)が介入することになったのである。

 教如にしてみれば、寝耳に水のような出来事であったと思われるが、教如はこれに受諾の意思を示した。

 ところが、筆頭家老の下間頼兼ら家臣団が譲状の存在に疑義を付し抗議した。これに激怒した秀吉は即刻の譲職を言い渡される事態に陥った。

 このシナリオを書いたのは、豊臣政権内を二分する利休派(教如と親しい間柄)を排除しようとする石田三成であったと云われているが、大坂拘様以来の教如に脅威を感じ、これを排除しようとした意図があったと思われる。

 教如はこれにより、またも安住の場を奪われることとなった。 

(つづく)