歎異抄を読んで | テンチョウのブログ

「歎異抄」より

 

「慈悲に(しょう)(どう)・浄土のかはりめあり」

 

仏教は智慧と慈悲の獲得・実践を目指す宗教で

この慈悲に聖道の慈悲と浄土の慈悲がある

聖道の慈悲は人間愛やヒューマニズムで

「すべてのものを憐れみ、愛おしみ、育むこと」ですが

親鸞は「それは不完全なもので」自分の都合による

歪んだ愛情で、浄土の慈悲は、「浄土へ往生して

仏になって人々を救うことを目指すもの」

 

今生(こんじょう)に、いかにいとほし不便(ふびん)とおもふとも

存知(ぞんじ)のごとくたすけがたければ、この慈悲始終(しじゅう)なし」

 

自分の都合が入った善であると意識し

善いことをしていると満足するな

 

 

中国古典 釈 宗演著

「菜根譚」より

 

(あく)(いん)()み、(ぜん)(よう)()

(ゆえ)(あく)(あらわ)れたる(もの)(わざわい)(あさ)くして

(かく)れたる(もの)(わざわい)(ふか)

(ぜん)(あらわ)れたる(もの)(こう)(しょう)にして

(かく)れたる(もの)(こう)(だい)なり

 

 

人目につく善行はたかが知れているが

表にあらわれない善行こそ偉大なのである

 

 

「アドラー心理学」

 

自分が誰かの役に立っていると思える時、自分に価値があると思え

自分を好きになることができる

他の人のために動くことが、自分にとって喜びである

強いられてすることでなく、我慢してすることでもなく

自発的な営みで、何かを期待することでもない

 

ほめられて育ったことの影響で、自発的ではなく

ほめてほしい、感謝されることを期待する

他の人から承認されたり感謝されなくても

行為そのものに価値や意味がある

自分がしたほうがいいと思うことが

人の役に立つというのがいい

何かを頼まれた時に、「いいよ」と引き受けてみたら

気持ちよく感じる

自分が役立っているという気持ちになる

 

特別なことをしていなくても

自分は他の人に貢献できていると思っていい

親にしてみれば、子どもはそのままで貢献している