※ このブログは、平成30(2018)年12月24日から「さくらのブログ」に掲載し続けている『逃病日記』の直近分をコピペしたものです。

 なお、『逃病日記501』(2023.5.23)  の「『逃病日記』の表題の変更について」に記載したとおり、ブログの表題を『逃病日記 ー妻とともにー 』と変更することにしました。

 

 

(24.3.18.月) 曇り

 今日は、K君の小学校が終業式なので、給食も食べずに昼前に帰宅するらしい。ということで、普段なら、例によって我が家で「学童」ということになるが、今日は、水曜日に大阪のK市に墓参りへ行く際の義兄等への手土産を買いに高島屋へ出かけるので、S君も一緒に連れて行った。

 車で出かけ、川端丸太町の娘宅に車を置いて、歩いて河原町丸太町に出た。ここのバス停なら多くの系統の市バスが経由するので、ここから四条河原町まで出ることにした。いろんな系統のバスが続けて来たが、どれも満員だったのでとりあえずパスしていたら、ちょうど四条河原町行きの京都バスが来た。空いていたのでこれに乗り、四条河原町で降りて、まっすぐ高島屋へ向かった。

 お昼の1時を過ぎていたので、まず七階の『京回廊』に向かった。お昼時なのでどの店も順番待ちのお客さんが店前の椅子に座って待っている。小学三年生なので、『三嶋亭』というわけにもいかず、いつも行く『東洋亭』は長蛇の列だったので、子ども向けの『ロイヤルホスト』で昼食をとった。

 昼食後はエレベーターで『地階食料品売り場』に行って、義兄等への手土産を購入した。『マルブランシュ』の『茶の菓』を三包、『叶翔寿庵』で和菓子の詰め合わせを一包、我が家と娘宅の夕食用に『551蓬莱』で、焼売、肉団子、豚まんを買って帰った。

 この後、S君が河原町の『オーパ』の『ブックオフ』に行きたいというので、八階まで行ったが、結局、S君が買ったのは、いつものように『ドラえもん』の「おもしろ〇〇」なんとかいう漫画による学習本だった。

 

(24.3.19.火) 曇り

 ヨメさんがスイミング・スクールに出かけたので、私は明日の大阪への墓参りのために、近くの『ENEOS』でガソリンを満タンにし、エアーをチェックしてもらった。エアーが抜けていたので高速道路仕様で補充しておいたとのことだったが、そもそも、車のエアーをいつ補充したらいいのか、  乗りごごちで気づくのだろうか  そのタイミングがよく分からない。

 その後、昨秋のお彼岸に墓参りに行った際に使った「墓参り道具一式」  ローソク、線香、ライター、除草剤、スコップ、ブラシなど  を確認し、近くのイズミヤにお墓に供える花を買いに行った。

 こんな風に準備万端に整えていると、えてして実行困難な状況が立ち現れるもんだ。

 まず、長姉が自転車事故で怪我をしたのでお墓参りに行けないと連絡があった。詳しい状況は分からないが、バイクと接触して転倒して顔を打ち、目の上が腫れて「お岩」のような顔貌で、行けなくなったということだった。

 もうひとつ立ち現れた「実行困難な状況」は、明日は台風並みの強風になるとの天気予報で、車で高速を走るのをヨメさんがビビって、電車で行こうと言い出したことだ。私自身も、一度、高速道路で強風にハンドルを取られた経験があり、その怖さを知っているので、なんとなく行く気が萎みつつある。

 かといって電車で行くとなると、出町柳駅まで京都バスで行き、出町柳駅から京阪で京橋、そこで環状線に乗り換え、天王寺から阪和線でK市へ向かい、最寄駅から義兄宅まで十数分歩く、というルートになる。左膝人工膝関節で、右膝変形性関節症の私にとっては、階段の昇り降り  全ての場所にエレベーターやエスカレーターが備わっているとは限らない  を含め、結構な距離を歩かなければならない。

 

(24.3.20.水) 曇り時々雨

 今日、予定していた大阪のK市への墓参りは、台風並みの強風とのことなので、昨日に想定していたとおり、取りやめることになって、昨晩にK市に住んでいる義兄にその旨をメールしておいた。墓参り後にランチを予約してあった地元のフレンチ・レストラン『シャンソニエ』もキャンセルしてもらわなければならないのがきずつない

 しかし、一夜明けると、強風の予報だったものの、(K市の方はどうか分からないが)ここ京都では、一時、強い風が吹いたときもあったが、車で走れないというほど荒れた天気でもない。天気予報というのは、えてして外れるというか、気象のタイミングがずれたり、予報の内容が当たっていても風雨の程度に強弱があったりするもんだ。

 

(24.3.21.木) 曇り時々晴れ一時雪

 今日は、ヨメさんをA病院の心療内科「物忘れ外来」に連れて行った。

 前日から、機嫌を損ねて「もういかへん」なんて言い出したりしないように気を遣う。前回の診察日から3ヶ月後の予約診察日で、カレンダーに予定を書き込んであるが、「なんでA病院へ行かなあかんの?」とか、眼科で通っていたB病院と勘違いして「A病院は坂がキツいからなぁ」てな感じで、記憶内容が全くおぼつかないが、本人にはその自覚はない。「どんな先生やったかなぁ?」というような具合で、主治医は女医さんなんだが、全く覚えていない。それで私は、「先生の顔を思い出さへんから(物忘れ外来に)行かなあかんねんで」と、少し冗談めかして言ったりしている。

 かなり待たされてから名前を呼ばれ、診察室に入った。最初の時期は、ふたりで面談した後に私ひとりだけ残って、ヨメさんの状態について先生に話すことができたが、最近は、私ひとりで話す時間をとってもらえない。ふたりでいる時にヨメさんの状態について訊かれても、ヨメさんが聞いているので、非常に話しづらい。

 前回の診察の時も、私が「家事全般で動作が緩慢になった」と話したら、ヨメさんは診察後に怒ってしまって、会計を待たずに先に帰ってしまい、院外薬局へは私ひとりで行って処方薬を受け取ることになった。

 今日も、先生が私にヨメさんの日頃の状態を尋ねるので、私が感じていることを話したが、ヨメさんがそれを横で聞いていて、診察室を出てから大揉めになった。主治医は、ヨメさんの状態に関して、本人と私との認識のズレを確認したいと言っているが、ヨメさん自身が「MCI(軽度認知障害)」であることを認めていない場合は、私も迂闊なことを言えない。家に帰ってからも「なんであんなこと言うたん。私のこと認知症やて思てんのやろ!」としつこく問い詰めてくる。

 今回の診察で主治医に対する見方が少し変わったように思う。ヨメさんの場合は、脳CTや脳MRIで検査した結果、アルツハイマー型の「MCI(軽度認知障害)」と医学的に診断が下されているのに、「本人と私との認識のズレを確認」なんて悠長なことを言っていていいもんだろうか。

 「医療行為」とは、エヴィデンスに基づく医学的な診断が基本であり、そこを中心にして患者を診ていくのが医師の役割だろう。病気によるいろんな症状に対して、本人や私がどのように認識を持つかということに関しては、個々人によってズレがあるのは当然のことだろう。最近でこそ、「レカネマブ」というような「病気を治せる薬」が出てきたが、まだまだ一般化した治療法ではなく、現状では「ドネペジル」などによって病気の進行を遅らせることしかできない以上、家族を含めた患者の精神的なケアの観点から「本人と私との認識のズレを確認」しているのかもしれないが……。

 一般に患者本人は「認知症」だとは認めたがらないものだろう。ヨメさん自身は、日頃は、老齢化による「物忘れ」だと言っているが、鍵やサイフをどこに置いたか分からなくなった時などには、混乱して「もうお母さんあかんわ」などと落ち込んでしまう。

 私としては、自分の病気についてヨメさん本人に正しく認識して欲しいとは思うが、かと言ってそのことで落ち込んでしまわれても困ってしまう。

 病気としては、私が患った「癌」と同じで、体の機能の一部が損なわれるもので、「認知症」の場合はその損なわれる部位が「脳」」ということで、事象としては同列のもので、手術や薬や様々な手段によりその状態を軽減し、場合によっては完治させることができるんだ、ということをコンコンとヨメさんに説いているが、本人は異質の疾患と思っているというか、やはり偏見を持っているように思う。

 以前は「認知症」のことを「痴呆」と言っていた。その言葉からくる偏見や悪いイメージをなくすために「認知症」と言い換えたわけだが、「精神分裂病」を「統合失調症」と言い換えたのと同じように、実態が変わっていないのに、「言葉」だけをすげ替えても、「偏見」やイメージがそんなに大きく変わるものではないように思う。

 

【今日の読書464※書名頭の数字は当方のブログ『読書リスト』の数字

①-21『吉本隆明代表詩選』

①-25『心的現象論序説』

②-44『明治大正史 下』

③-52『生命 最初の30億年』

③-54『すごい実験』

④-9『小林秀雄全集7/歴史と文学・無常ということ』

⑤-13『吉本隆明×吉本ばなな』

⑥-25 『文庫の読書』

⑥-27『小説家の四季 2007-2015』

⑦-89『騎士団長殺し2』

⑦-90『フィッツジェラルド10』

⑧-17『ステパンチコヴァ村とその住人たち』(Kindle)

⑨-5『自省録』

⑩-39『プルーストを読む生活』

⑪-9『色川武大・麻田哲也エッセイズ1』

⑫-29『小説の読み書き』

⑬-11『こころ』(Kindle)

コメント:⑤-13『吉本隆明×吉本ばなな』から、吉本ばななさんの創作に関して、ご本人と父親の隆明氏の両人による貴重な発言が記録されている箇所から、引き続き引用しておく。

p.144-145(隆明)「作品の中で一人一人の人間はそんなに描かれていないんだけど、登場人物がこう出会ったときに生まれる関係みたいなものがあるでしょ?心理的な関係から無意識的な関係まで含めて関係があるでしょ?その関係の範囲を広げるって言いましょうか。関係の世界を超能力みたいな場面が全然ない関係に比べて、広げる役割を作品の中でしてるんじゃないかな。つまり、読む方から言えば開放感みたいなね、そういう役割をそれはしてるんじゃないかな。(中略)あんまりオタクになって信じててっていう感じじゃなくて、自然にその超能力的な登場人物の場面っていうのは出てきて、そんなにおかしいっていう風に感じないで、関係の範囲を広げる役割をしている。(中略)もうひとつ“胎内的”っていうことかもしかすると“無意識”っていうことと同じことを言ってるのかな」

p.144(ばなな)「かもしれない」

p.144-145(隆明)「無意識の働きっていうのをそういう形で出すみたいなね、そういう形で出てくるみたいな、そういうことを言っているのかなっていう気もしたんです。(中略)作品の中で幻想性みたいなことが入ってくるみたいなことだったら、たとえば泉鏡花の作品なんか、ちょっとこれは本当に幽界っていうか幽霊の世界みたいなところに入っていっちゃったなっていう、描写はあるけど超能力的なものとはちょっと違いますよね。幻想小説っていうか幻想の作品として自然にひとりでにそういう風に表現されちゃうみたいな意味ではあるわけだけど、超能力っていうのはあんまりなくて、それを使った作品っていうのはもちろんないことはないんですけど、そうするとわざとらしいことになりやすい。ああこれ超能力で一個つくちゃったなっていう意味ではあるんだけど、つまりそうじゃなくて、自然な形でそういうのが出てきちゃってある役割を作品の中で果たしてて、それはひとつの特徴だから『これは一体何なんだ?』っていうね、つまり単なる興味からそうなのかじぶんにそういう素質があるからそうなのかとか、あるいはじぶんが作品の中でそういうことを意図的に表現して、作品の世界を広げるみたいな、そういうことを意図してそうなのかっていうことはやっぱり興味深いですね。」

p.146(ばなな)「私は初期の頃の作品が酷い感じがするなあ、その混ざり方というか。それで、いまはちょっとわざとになってきたからよそうかなっていうような、一番冴えない時期ですね。やっぱり(笑)」

p.146(インタビュアー)「(笑)すっごい正直な発言がいきなり出ましたけど。」

p.147(ばなな)「はじめの頃の方がなんか、じぶんで読んでても  読まないんですけどね  この人ちょっと危ない人なんじゃないかとか、ちょっと分裂病になりそうとか、はじめの頃の方がむしろ思う。今はまたじぶん自身の編集能力が高まりすぎているところが問題だけど、いまの方がまだ超能力的なことに関してはましなような気がする。」

p.147(インタビュアー)「ああ、なるほどね、対象化されているとその分技巧的になってると。」

p.149(隆明)「幻想というのと似てる世界で、超能力性がとても低いというかね、少ない作品だを思うんだけど。これは本当に超能力って言うより仕方がないんじゃないかなっていう、本格的な超能力を登場人物があらわす。それを描写した小説もあるよね。もちろん『アムリタ』でもいいし『とかげ』そのものでもいいんだけど。これはちょっと超能力小説だよって言いたいくらいに高度に超能力性みたいなものがあらわれている作品もあるしね。だから段階がね、やっぱりいくつかあるような気がする。(中略)超能力が作品の物語性を解いちゃってるっていうよりも、一種の内実性を超能力が解いちゃってる。それがあるために作品として進行していちゃってる意味で超能力性っていうのを使ってるのは、意識的であれ無意識的であれ、大変珍しいと思うな。これ方法と言ったらいいのか資質と言ったらいいのかわからないけど。問題として取り上げた方がいいように思いますねえ」

 

今日の映画464】※データは『映画.COM』のサイト等から入手

邦題:『ジェイソン・ボーン(U-NEXTで視聴)

原題:Jason Bourne

製作年:2016年

製作国:アメリカ

監督:ポール・グリーングラス

出演:マット・デイモン/トミー・リー・ジョーンズ/アリシア・ヴィキャンデル/バンサン・カッセル/ジュリア・スタイルズ

ストーリー:ジェイソン・ボーン(マット・デイモン)が消息を絶ってから何年もの歳月が経過したある日、世間から姿を消して生活していたボーンの元に、CIA の元同僚であるニッキ―(ジュリア・スタイルズ)が現れる。彼女は、「CIA が世界中の情報を監視・操作する事を目的とした、恐ろしい極秘プログラムが始動したという」という情報を告げ、さらにボーンの過去にまつわる「衝撃的な真実」を明かす。そしてその真実は、新たな戦いの始まりを意味していた。ボーンは再び姿を現すこととなり、追跡を任された CIA エージェントのリー(アリシア・ヴィキャンデル)は、彼が最も求めているものを提供すれば、再び CIA 側に取り込めるのではないかと考え始める。しかし“史上最も危険な兵器”であるボーンは、追跡者が想像すらできない、ある目的を持って動いていた・・・

コメント:評価は5点満点で、映画.COMは3.4、TSUTAYAは3.32、Filmarksは3.6で、私の評価は3.5とした。

 マット・デイモンが、記憶を失った最強の暗殺者ジェイソン・ボーンに扮する人気アクションサスペンスのシリーズ第5作。「ボーン・アイデンティティー」「ボーン・スプレマシー」「ボーン・アルティメイタム」の3部作を手がけたポール・グリーングラス監督とデイモンが、9年ぶりにシリーズ復帰を果たした。この作品は数年前に一度観たと思うが、CIA エージェントのリー役のアリシア・ヴィキャンデルの他は既視感がない。やはりジェイソン・ボーン役はマット・デイモンでないとあかんね。「BOSSコーヒ」のトミー・リー・ジョーンズがボーンの追跡を指揮するCIA長官で出演してたけど、このオッチャンしわくちゃやなぁ。

 

【今日のジャズ464※データは『ジャズ資料館』のサイト等から入手

タイトル:Pure Getz

アーティスト:The Stan Getz Quartet

レーベル・品番:Concord Jazz・CJ 188/キングレコード・KICJ 2028

録音年月日:1982.1.29/2.5

曲名:On The Up And Up/Blood Count/Very Early/Sipping At Bell's/I Wish I Knew/Come Rain Or Come Shine/Tempus Fugit

ミュージシャン:Stan Getz (ts)/James McNeely (p)/arc Johnson (b)/Victor Lewis (ds)//Billy Hart (ds)

コメント:70年代後半はやや低調だったが、コンコードでアルバムを発表するようになって、スタン・ゲッツは復調した。それを伝えるのが、先に録音した『ドルフィン』と本作だ。どちらもワン・ホーン・カルテット作品で、彼が朗々としたブローを聴かせる。こちらでは若手中心のリズム・セッションを得て、ゲッツが斬新なアプローチを示す。ヴェテランの地位に甘んずることなく真摯な姿勢を貫くことで、演奏を小気味のいいものにした。(『レーベルで聴くジャズ名盤1374』から引用)

<YouTubeライブ映像>

Stan Getz Quintet Live At The North Sea Jazz Festival • 13-07-1980 • World of Jazz

Stan Getz quartet with Tony Williams - Montreux 1972

STAN GETZ & CHET BAKER (1983) - Live in Stockholm