← 庭のあちこちにワラビが。その発端は台所直下の水場脇。伸びた葉っぱを育っては千切って庭に撒き散らした。だから方々にワラビが育ってしまった? (05/23 18:51)

 

 パトリック・シャモワゾー著『カリブ海偽典 (最期の身ぶりによる聖書的物語)』(塚本昌典則訳 紀伊國屋書店)…本書…気が付けば半ばに。5合目かな。 (05/23 18:59)

(頂いたコメントに)マルケス「百年の孤独」、アジェンデ「精霊たちの家」、パワーズ「黄金虫変奏曲」などを初めて読んだ時の困惑を思い出してしまいます。でもいずれも文学界に屹立する傑作群。本作もパワーを感じます。だからこそ読める。 (05/24 02:52)

 

 ← ミシェル・フーコー 著『フーコー文学講義 ─大いなる異邦のもの』(柵瀬 宏平 翻訳 ちくま学芸文庫) 「シェイクスピア、サド、アルト―、レリス……。フーコーが文学と取り結んでいた複雑で、批判的で、戦略的な関係とは何か。未発表の記録、本邦初訳。」

 

 ミシェル・フーコー 著の『フーコー文学講義 ─大いなる異邦のもの』(柵瀬 宏平 翻訳 ちくま学芸文庫)を22日(水)に読了。「狂気と言語、文学の考古学、欲望と真理をテーマに、シェイクスピア、セルバンテス、ディドロ、アルトー、レリスらが呼び出され、サドをめぐり議論はひとつの頂点に達する。1960‐70年代に行われた諸講演の記録を詳細な訳注と解題を付して邦訳」といった本。

 吾輩には理解が難しい論考。せめて索引が欲しかった。

 

 サド論やアルトー論が面白かった。「サドの様々な小説を通じて、同じ物語、同じ人物たち、同じ身振り、同じ行為、同じ暴力、同じ言説、そして同じ推論が際限なく反復されるのをわれわれが目にする」のは何故か。そう、好奇心一杯で読んでも、まさにサド作品を読んで際限ない堂々巡りな叙述に辟易してしまったものだ。何度挑戦しても同じ挫折(?)に終わる。

 それは現実の行為においては際限なき反復は不可能だが、想像力ならば「享楽の際限なき反復に導くばかりでなく、想像力が自らの限界を超えることを可能にする」のだと。

 サドは牢獄にあって孤独であり孤立しており、サドのエクリチュールは、「他の人の考えや感情を伝達したり、押し付けたり、示唆したりすることではまったくない」のだ。「実のところ、誰にも語りかけることのない」エクリチュールなのである。フロイトやマルクーゼのモデルを押し付けるのではなく、「逆にサドの思想から出発し、サドの思想との関係において、フロイトとマルクーゼを理解」すべきという。

 サドとは、「欲望は、真理のうちにおいてのみ無制限のものになり、真理は、欲望の地においてのみ作動する」と語った人物なのだとも。

 吾輩としては今更サドを読み返す機会は持てないだろうが、実際に読んでいた若いころにフーコーのこうした本に接していたら読み方も変わっていた…だろうか。 (05/24 03:33)

 

 

 ← 裏庭の生け垣にミニバラ。鮮烈な赤い花たちが開花~~ん! (05/23 18:53)

 

 ブライアン・グリーン著『時間の終わりまで 物質、生命、心と進化する宇宙』(青木薫訳 講談社)…昨日は序文しか読めなかった。今日からいよいよ本文。素晴らしい文章の書き手。ゆっくりじっくり楽しむ。 (05/23 18:58)

 

 ← いよいよ皐月ロードに。今日は庭仕事は軽く。車道沿いの水路を溝浚い。30分余りで汗だらだら。 (05/23 18:56)

 

 エドワード・オズボーン ウィルソン著の『知の挑戦: 科学的知性と文化的知性の統合』やアーネスト・ベッカー著の『死の拒絶』が、昨日から再読し始めたブライアン・グリーン著の「時間の終わりまで」にて言及さる。読めるものなら読みたいが…。 (05/23 17:54)