Sironeko 「猫、春の憂鬱を歩く

 

 春である。近所の犬コロどもも盛りの血が騒ぐ春である。我輩の可愛いお鼻もあちこちから春風に乗って漂ってくる匂いにヒクヒクしている。でも、臭いに関しては、犬コロどもには、ちょいと敵わない。
 まあ、それだけが奴等の取り柄なんじゃから、自慢気に大地をクンクンさせておけばよいのだよ。
 その代わり、我々猫族は、なんたって耳がいい。犬コロどもだって、人間には比べものにならないほどに音に敏感だ。そう、ドアの閉まった家の中にいたって、表から響いてくる足音で、ご主人様の草臥れかけたドタッドタッという足音、近くのガキどもの元気闊達なタンタンという足音を聞き分けているよね。

 

 それでも、俺様たち猫族には、ワンコロも裸足で逃げだすに違いない。って、犬コロはいつも裸足だったっけ。
 ネズミだってゴキブリだって、人間さんたちには姿が見えない限り、退治しようがないんだろうけど、我々はネズミが天井に潜んでいようが、ゴキブリが台所の流し台の隅っこの透き間から出入りしていようが、見逃しはしない…、もとい、聞き逃しはしないのさ。
 カリカリ、という微かな音というか響きというか、なんていうんだろう、空間のざわめきみたいなものが俺様の自慢の耳に伝わってくるんだね。我輩は、我が耳を空間の触覚と自称している。
 その触覚。あまりに敏感なので、天井の音、床下の音、窓の外の音、ガキの騒ぎ立てる足音、遠くを走る電車のレールを擦る響き、凡てを感じている。
 ほら、猫の身体に触ると、なんだかブルブルと小刻みに震えているだろう。あれは、単に鼓動が人間さんより早いからだけじゃないんだよ。どんな音も拾ってしまうから、その凡ての音が常に何の音なのか、懸命に分析して、無難な音か、それとも警戒すべき音なのかを察知しようとしているのさ。神経がまいるほどの苛酷な作業だよ。身体の震えは、その絶えざる怯えの現れなんだよ。
 触覚というと、文字通り、触れる感覚のようだけど、俺様ほどになると、耳は四方八方からの無数の音を嗅ぎ分ける三次元の触覚そのものなのだよ。

 そう、よくあるだろう。ご主人様というか、ご主人様気取りの、その実、我々が面倒を見てやらないと一日たりともまともには生活できない人間さんが、餌と称して、キャットフードの袋を手に持つと、もう、猫の尖がった耳が一層、尖がり、音の方へ向く。袋が開かなくたって、それがお菓子の袋か、それともキャットフードの袋かは、もう、一度聴けば分かるからね。ジャンクフードの袋だったら、我々は見向きもしないさ。そこがまた、犬ドモとは違うところだね。奴等は何でも食べる。人間どもの食べるものを見境無く口にする。少しはプライドを持てといいたいね。
 我々猫族は、食べたいものを食べる。キャットフードも食べてあげるけど、ゴキブリなんて大好物でね。あの脂ののった、黒光りする奴等の足音が聞こえるだけで、ワクワクしちゃう。最近、ちょいと残念なのは、家の中からゴキブリが締め出されていること。

 それでも、この高性能の空間の聴診器たるアンテナは常に動いている。表のほうでゴキブリや何かの昆虫がモゾモゾしたりしようものなら、待ってました! さ。人間さんたちは、ご存知ないようだけど、ゴキブリって家の中より外のほうがたくさんいるんだぜ。
 もう、ゴキブリを追い駆けていく楽しさといったら! しょっちゅう、奴らには逃げられちまうけど、そんなことは問題じゃない。捉まえて食べることしか眼中にないわけじゃないのさ。そう、追い駆けるってことが楽しいのさ。心底、エンジョイしている。やつ等が小さな穴に隠れて、へいへい、ここまで追えないだろう、なんて、ベロを出して我々をからかったりしたって、へいっちゃらさ。
 その分、掴まえた時は、我がチャーミングな腕の中で、さんざんに甚振ってあげるからね。羽根を一枚一枚、もいでいく…、足を一本一本引っこ抜く…という、えげつない楽しさといったら、もう!! オナゴの衣装を脱がしていく楽しみに似ている…、それ以上かもね。
 それにしても、春だ。寒さにやたらと弱い我々が表を闊歩する春がやってきたんだ。
 我輩には、幾つか楽しみがある。夜、ただただ月に見入ること。屋根とか日溜りなんかでひなたぼっこをすること。ゴキちゃんを追いかけること。猫の仲間のミーちゃん、ケイちゃん、ユミちゃん、マミちゃん、要するに適齢のメスの猫ちゃんにモーションを掛け捲ること。もう、雑魚寝にマルチプレーにスワッピングにと、とにかく何でもありの世界が繰り広げられているんだけど、これは、あまり語ると人間さんには刺激が強すぎるからね。詳しくはやめとくね。
 これだけでも一日、猫をやったら癖になる、止められなくなるよ。

 有名な作家の先生も、きっといつか猫の愉悦に満ちた秘密を知って、それで我輩は猫である、なんて書き綴ったんだろうね。先生、結構、神経質で胃が悪かったらしいし、我々が羨ましいと思うのも無理は無いさね。
 まあ、実のところ、本音をちょっと漏らすと、猫には猫の苦労があるんだけど、まあ、苦労話はやめとくよ。我々はこれでも、ペットたる本分を忘れてないからね。我々の心労がいかなるものかが分かったら、人間さんは、猫が哀れで飼えなくなってしまう。それでは、我々が人間さんに与える慰撫も甲斐が無くなってしまう。苦労は我が身で黙って背負うのさ。人間さまは、せいぜい、癒しを我々から享受するがいいのさ。猫は辛いよ…、全く。

 でも、その観察眼の鋭い先生も気が付かない楽しみがある。
 なんだと思う? 
 えっ、分からない。ああ、もう、察しが悪いんだから。話の流れがまるで読めてないね。思いっきりヒントをあげたじゃないか。えっ、ねえちゃんとネコニャンニャンすることだって?
 バカだね。愚かって言うか。その悦楽の園は、人間には窺い知れない世界さ。
 あのさ、最初に喋ってあげたじゃないか。猫の耳は人間なんて問題にならないほどに、犬だって敵わないほどに敏感なんだって。
 そう、音さ。

 猫は目がいいって、いつだったか教えてあげたよね。それ以上に、猫は耳が命なのさ。犬コロどもの嗅覚の世界ってのも、凄いらしいよ。そのうちに、我々がワンちゃんに聞いた臭いの世界の豊かさドラマに満ちた世界を教えてあげるね。いや、もう、今、思い出すだけでも赤面ものだね。
 興奮しちゃう。ああ、喋りたい!!! ニャオー!!!!
 コホン。我輩としたことが、つい。

 で、なんだっけ。
 そう、耳の話だったね。

 春の足音が聞こえてきたら、我々は颯爽と表に出る。冬の間、家の中とかに篭っていたのは、寒さが嫌いなことも勿論あるけど、それ以上にある楽しみが欠けているからなんだよ。そう、音なのさ。
 冬の間は、音を巡るドラマも、やっぱり冬の色に染められて、単調になっちゃうんだね。そうはいっても、我々は賢いから、ひそやかでささやかな音の世界を楽しんではいるんだよ。
 ただ、やっぱり啓蟄の春には音のカーニバルが始まる。
 我輩の一番好きな音は、木の音なんだよ。えっ、木の音、なんだ、平凡だ、木の葉の風にそよぐ音なら我々だって、好きだ、なんて思ったら、とんでもないよ。

 我輩が言いたいのは、木の幹の中の音なのさ。
 君たちは、木の幹に聴診器をあてがったこと、ある? 一度、やって御覧よ。凄いんだから。ゴオーって、まるで洪水だよ。滝だね。それも、上から下へという当たり前の滝じゃない。水を大地から吸い上げる音、人間さんがストローでジュースなんかを吸うだろう。あれさ。あれのもっと凄まじい奴なんだね。
 我輩がガキの頃、我がお袋に聞いたものさ。あれは何の音って。するとお袋は言うんだね。

 あれはね、水を吸っている音なの。
 へえ、凄い音だね。なんだか人間がシチューをズルズル音を立てて食べているみたいで、行儀が悪いね。木が猫だったら、躾がなってないって、かあちゃんに叱られるね。
 違うんだよ。木は懸命なんだよ。
 懸命? 

 そうだよ。木はね。水を吸っているんじゃないんだ。大地の養分を吸い上げているのだよ。大地の「栄養分に富んだコールドスープか冷たいブイヤベースがお気に入り」で、大地の食材を直接ガリガリ食べるわけには行かないから、たっぷりの水に溶け込んだ天然のビタミンや栄養を吸い上げて、そして漉して、必要なものを吸収しようとしているのだよ。そうだ、いつか、お前を海か川に連れてってあげる。

 海? 川? 
 そう。そこにはお魚さんがいてね、お魚さんも、口をパクパクやって泳いでいるんだよ。
 口をパクパク?
 そう。口から海の水、川の水をたーぷり、飲み込んでいるんだよ。
 わー、それじゃ、溺れちゃうじゃない。

 それがね、うまくいっているの。鰓(えら)ってのがあって、大部分の水分はそこから吐き出されるの。で、水の中にプランクトンとかいろんな微生物が混じっているから、そうした餌を漉し摂っているんだよ。
 ふーん。大変だね。

 でね、木も同じことをやっているの。もう、大地に水を求めているの。水の中に含まれる栄養分を絶え間なく吸い上げているの。で、不要な水は、葉っぱから棄てられるのね。木の幹の表面は栄養分を取り込んでいる最中だから、表面はガッチリしているし、時にはパサパサだけど、その分、葉っぱは瑞々しいというか、青々しているけど、当然だよね。水分がドンドン表に噴き上げてくるんだから。
 そうか。じゃ、木も魚も生きる方法は同じなんだね。水に溶ける栄養を懸命に取り込んでいるんだものね。
 あれ? そしたらさ、もしかしたらさ、ボクなんかが、ちょっと前までかあちゃんのおっぱい、吸ってたよね。あれって、その…。
 そう! よく、気が付いたね。猫だって同じ。人間どもだって同じなんだよ。赤ちゃん、思いっきり、チューチュー、おっぱい、吸ってるよね。理屈は、同じなんだよ…。

 ああ、そんな会話を我輩は御袋と交わしたものだった。なんて賢いお袋。なんて聡明な我輩。感動ものだ! こんな会話をする親子なんて人間さんたちでは、ついぞ、聞いたことがないね。
 でも、この頃、ちょっと悲しい思いをしている。そう、この数日、林の中を散歩して気づいたんだけど、お袋に聞いた説に、ちょっとした間違いがあることが分かってきたのさ。
 それは、木の幹から聞こえる音は、水を吸い上げる、逆さ滝の音なんかじゃないってこと。そうじゃなくて、そのなんともいえない不可思議な音は、もっと、神秘的というか、この世、この自然全体の音と共鳴している音なんだって気づいてきたんだよ。

 つまり、木は、大きな一個のアンテナなんだね。風の囁きや大地の響きなんて自然の音に敏感に反応し共鳴し木霊する環境音楽の宝箱なのだって分かってきたんだ。一番、敏感に共鳴するのは仲間の発する歓びの震えに対してなんだけどね。
 で、何が悲しいかって、それは、お袋の説に間違いがあったからなんかじゃない。それほど、我輩は愚かじゃないさ。誰だって間違いはある。人間ほどじゃないけど、猫族にだって間違いはないことはないのさ。

 じゃ、何が悲しいかって。

 それはね。音が、昔と違うからさ。遠い昔、お袋に促されて聞いた時の音と、この頃になって木から聞こえてくる音が違うのさ。昔のような、なんともいえない深みと哀愁と、そして生きる喜びを快哉するような命の耀きに満ちた音じゃなくて、なんとも濁った、寂しい、悲しげな音に変わっているって、我輩の耳は言うんだよ。
 我輩の耳は、どんな微細な変化も聞き漏らさない心の聴診器なんだからね。
 それにね、我輩の先輩にも聞いたんだけど、木って、一本だけ、ポツンと立っていると、風や自然に共鳴しようとしても難しいんだって。人が友達や恋人と、我々猫族が仲間と語り合って心を豊かにするように、木々だって、仲間の木が周囲にあって初めて木霊に厚みが出て来るんだよ。

 これは、我輩が、一本だけ、つくねんと立っている木の漏らす音と、林の中で賑やかに談笑している木々の奏でる音とを聞き比べてみたから、間違いないね。
 並木道って人間には見てくれがいいらしいけど、木にしたら、仲間の木との交響楽を奏でるには、厳しすぎる環境なんだよ。ああ、人間どもに、猫ほどの耳を持つ奴がいたら、木の植え方、並べ方に工夫を凝らすんだろうけど、夢の夢だな。

 ああ、昔のように、木の奏でる、生命の讃歌のような音をもう一度、聴きたいな。
 こんな時は、鋭い聴覚って奴を恨むね。時代が変わったんだね。自然が悲鳴を上げているんだ。ああ、春なのに。せっかく歓び勇んで木の春の息吹を告げる歓喜の叫びを聞きたかったのに、こんな結果になるなんてね。
 でも、それでも、今も木は、大地に根ざしているんだね。風の音に応えているんだね。変わり果てているとしても自然の囁きに木霊しているだね。その健気さと逞しさを感じることができただけでも、良しとしなくっちゃいけないのかな。 


                 (04/03/19記