Yane_20240125123101 ← 4時過ぎから雪に。たった今 買い物から帰宅。降り止んでホッとしてたのに。 (01/24 16:13)

 

 ブログ日記。この数年、こういった細切れの記録の寄せ集めになってる。これは三年前の暮れ辺りから、勤務時間(形態)が隔勤(週に三回終日勤務)から一応は日勤(週に五回ほどの勤務。但し、夕方から丑三つ時まで)に変わったから。

 バイオリズムも狂いっ放し。ほとんどが読書メーターに呟いたりメモった断片的記事を寄せ集めてアップするのが習いになってしまった。以前のように、有り余る(かのような)休みの時間を前提に日に一つのテーマでじっくり書くってことがなくなったのだ。

 自分としては非常に歯痒い。日々の記録としてはいいかもしれないが、内容的に突っ込みぶりが足りず、物足りない。在宅の日は庭仕事に終始。何か工夫しないと、創作にも中途半端になりがち。 (01/25 12:42)

 

Bord ← ジェシカ・ワイン著『数学者たちの黒板』(徳田功訳 草思社) 「なぜ数学者には黒板が必要不可欠なのか?」

 

  上掲書は題名(広告)だけで読むと決めていた。書店で探すまでもなく見つけて即入手。

「(前略)実は数学者の多くにとって、黒板はいまでも数学のための最重要ツールであり続けています。黒板は数学と向き合い、数学者たちや生徒たちとつながり、数学の世界を拡張してゆくのに必要不可欠な存在なのです。」 (01/24 16:18)数式を板書する姿で初めてへエーと感じたのは高校時代。数学者じゃないけど、数学の(も)できる奴が放課後1人残って黒板に向かって高三レベル以上の積分の数式。彼は東大の医学部へ。彼は文筆の才もあった。ちなみに数学的センスに関しては同じクラスに傑出した人物が居たとか。 (01/24 16:24)

 

Cholk ← 黒板に板書するには、羽衣チョーク 

 

 が、「業況の改善が難しいことに加え、後継者不在と代表の体調不良などから、2015年(平成27年)3月に廃業することが発表され、3月20日に生産を終了、3月31日をもって販売を終了した。」(「羽衣文具 - Wikipedia」参照のこと。) (01/24 16:50) 知らなかった。今はホワイトボードやらガラスボードなのかな? (01/24 16:51)
(頂いたコメントに)黒板もチョークも健在らしい。本書の著者(や一部の数学者)が羽衣チョーク推し! 我輩は黒板というと悲しい思い出しかない。先生に前に出てこの問題解いてみろって。長く立ち竦んだあげく、教室の後ろ(指定席)に立たされて。バケツは持たされなかったけど。 (01/24 19:06)

 

Tokeru ← 今日はシャワータイムなし。なので、浴室を暖める必要もない。よって薪ストーブの出番なし。降雪の峠は越えた。日中は零度をやや越える程度。雪融けは気持ちだけ。夜の凍結が怖い。降り積もった雪が屋根から滑り降りて家の中への侵入を試みてる… (01/25 11:34)

 

 「家政婦のミタ」を録画で観て涙する我輩。必ず1人で観る。ナナコに欲情…。リアルタイムで観た数少ないテレビドラマの一つ。 (01/24 19:10)

 

 

Matu_20240125115901 ← アナ・チン著『マツタケ 不確定な時代を生きる術』(赤嶺淳訳 みすず書房) 「進歩という概念にかわって目を向けるべきは、マツタケ狩りではなかろうか」。

 

 アナ・チン著の『マツタケ 不確定な時代を生きる術』を昨日20日(水)読了。みすず書房フェアにて発掘。他みすず書房の本を数冊購入。
 やや大部だが中身が濃そう。実際、ユニークな内容だった。単なるマツタケについての蘊蓄を語るのじゃなく、マツタケをキーに「不確定な時代を生きる術」を語る。 (01/24 18:02)
 内容案内:「本書は、20世紀的な安定についての見通しのもとに近代化と進歩を語ろうとする夢を批判するものではない。……そうではなく、拠りどころを持たずに生きるという想像力に富んだ挑戦に取りくんでみたい。……もし、わたしたちがそうした菌としてのマツタケの魅力に心を開くならば、マツタケはわたしたちの好奇心をくすぐってくれるはずだ。その好奇心とは、不安定な時代を、ともに生き残ろうとするとき、最初に必要とされるものである」
 著者のアナ・チンは、「カリフォルニア大学サンタクルス校文化人類学科教授。エール大学を卒業後、スタンフォード大学で文化人類学の博士号を取得。フェミニズム研究と環境人類学を先導する世界的権威。おもにインドネシア共和国・南カリマンタン州でフィールドワークをおこない、森林伐採問題の社会経済的背景の重層性をローカルかつグローバルな文脈からあきらかにしてきた。」
 本書から(ほぼ無作為に)抜粋:「注意深く森の中を歩くと、たとえ傷ついた森であっても、生命の豊かさを感じることができる。太古からのもあれば、あらたに誕生したものもある。足下から頭上の開けたところまで、いたるところで生命を感じさせられる。森の生命について語ることができるのであろうか? 人間の活動を超えたドラマと冒険を探求することからはじめてみよう。わたしたちは人間のヒーローが登場しない物語には、まだ馴染みがない。これこそが本章を特徴づける難問である。しかし、景観が主人公で、人間が登場者の一種にすぎない冒険など、そもそも存在しうるものであろうか?」(p231-232)
 シイタケは身近で、マツタケは縁遠い。その異同は何故:
「シイタケ、エノキタケ、ナメコ、ブナシメジなど。これらのキノコは、動物や植物の遺体から発生する有機物を栄養として吸収して生きています。有機物を無機物に変換することでそれがまた植物の栄養となり、生態系において大切な役割を果たしています。 土からではなく、倒れた木や落ち葉から生えている場合が多く、人工栽培が可能なので、環境さえ整えてあげれば家庭で栽培することもできます。」
 なので、シイタケは馴染み深い。一方、
「マツタケ、ホンシメジ、テングタケなど。この種類は、植物の地中の根とからみあって生きているので、土からひょっこり生えている場合が多いです。マツタケが高価なことからわかるように、これらキノコの人工栽培は困難です。」(「「椎茸と松茸は生き方がまるで違う?意外と知られていないキノコのタイプ2種 | 家庭菜園ウェブマガジン「おうち菜園」」」)ということで(香りなど諸々他に理由はあるけど)マツタケは高根の花。 (01/24 18:36)
 ちなみに我輩はマツタケもシイタケも嫌いです。ホント。プレゼントされても口にはしない。試しに贈ってくれる? (01/24 19:01)
 原題は「THE MUSHROOM AT THE END OF THE WORLD」。世界の終りのマツタケ…じゃなく、世界の果てのマツタケの意味だろう。 (01/25 12:01)