「刀葉林の夢」
ガキの頃とて、誰かに見せられた絵図の印象は鮮明であり、強烈だったようである。どんな昔話や童話よりも。曼荼羅画の説明などは右の耳から左へ抜け去ってしまっていたはずだが。
小学校に上がる前の一時期、夜毎、地獄の世界を彷徨っていた。曼荼羅画に垣間見た世界は自分がまさに今、日々体験している世界そのものじゃないか…。
といっても、家を脱け出て、どこかの地獄をうろついていた…といった類いのことではない。
夜、眠りに就くと、決まって、焦熱地獄とでもいうのか、炎の燃え上がる崖の上を逃げ回っていたりする自分がいるのだった。
幾度も繰り返し見た光景があった。
閻魔様か誰かに包丁か刀か分からないが、何かの刃で足の脛か脹脛の肉が抉り取られる(不思議なのはその犠牲者が自分なのかどうか、覚束ないことだ。なんとなく他人の悲惨な光景を眺めていたようにも思える…)。
痛いとは感じなかった。
それより、そんな無様な姿を他人に見られるのが無性に恥ずかしかった。
その肉片を取り戻そうと懸命に追い駆け、苦労の果てに、なんとか追い着いて取り返す。
そして、その肉片を肉の削げ落ちた辺りに宛がってみる。
ところが、どう合わせてみても、合わないのである。もしかしたら他人の肉片を間違って持ってきてしまったのではないか、という疑念が脳裏を掠めている。
そういえば、何処かの若い男女が焔熱地獄の野を逃げ惑っていた。その若い男性も、脛(すね)だったか脹脛(ふくらはぎ)だったかの肉が削がれていたのだ。
窮していた自分は偶然目にした肉片をもっけの幸いとばかりに拾い上げ、逃げ去ってしまった…、そして自分の欠けた部位に宛がおうと徒(いたずら)な苦労をしていたような…。
何故、自分の肉片ではないのではと思ったかと言うと、その血の滴る肉の塊の皮膚はなんと脛毛(すねげ)が濃かったのだ!
しかし、そんな<事実>をこの期に及んで認めるわけにはいかない。
で、いつまでも、未練がましく、合いもしない肉片を脛(すね)か脹脛(ふくらはぎ)に宛がいつづけながら、途方に暮れている……。
しかも、その取り戻したはずの肉片が、いつの間にか捥げた脛(すね)の部分と同じ大きさの櫛(くし)を後生大事に握っているではないか!
若い男の脛毛じゃなくって、女の櫛を拾ってきて、脛に宛がおうとしていた?
呆気に取られ、呆然としているところで、目が覚めるというわけだった。
[本稿は、拙稿「三途の川と賽の河原と」からガキの頃に見た夢について記述した部分を抜粋したものである(アップに際し、若干手直しの上、画像を付す。画像は、『地獄極楽図部分・刀葉林』 (画像は、「長岳寺 地獄図解説」より))。拙稿「ワンタン麺とは呼べないのでは?」]