Number-32ドリッピング

 

 どんな表現の営為も、その表現の衝動の基盤には、自らでさえ探りえない暗くて深い、分析も、まして全体的俯瞰など論外であるような、広大なる沃野とも荒野とも判断の付きかねる世界があることを誰しも、気づかざるを得なかった。
 遠い昔、私とは一個の他人だと、誰かが喝破したのだった。
 が、20世紀になって、一個の他人であろうと何だろうと、あらゆる輪郭付けの試みの一切を呆気なく放棄せざるをえないほどに、<私>は見えなくなっている。誰かが言ったように、私とは、せいぜいのところ雲なのだ。


 下手すると霧のようにやがては日の下では雲散霧消を余儀なくされている散漫なる点の粒子のたまさかの凝集に過ぎないのかもしれない。
 私の中の得体の知れない盲目的な<意志>が、懸命に散逸しバラけていく霧の薄明を、せめて雲ほどには、そう、遠目には、一個の塊であるかのように、必死な思いで私の片鱗や欠片たちを掻き集めているのだ。
 そう、私とは、懸命に私を私と叫びたい、悲鳴に他ならないのだ。路上に撒き散らされたバケツの水なのだ。やがて蒸発し乾き去った路面に戻る。
 慌てて、自分の姿を探す。せめて、自分の影の名残か痕跡だけでも残っていないかと、路上を虫眼鏡で見て回る。なんて滑稽な!
 語っているのは依然として私に変りはないのだけれど、語っている私の姿が見えないのだ。
 他人に見える私。私に見える私。他人に見えない私。私に見えない私。


 ん? 他人に見える私って、私が他人のように見えるっていう意味かって? 
 ああ、それは誤解。他人様が見ることで成り立っている私という意味だ。以下同様で、私が見ることで何とか取り繕われている私だし、他人には見えないけれど、私にはきっと見えるだろう私であり、そして最後は、他人にも、そして私にも見えない私だ。
 玉葱の輻湊した身を一枚一枚剥いでいって、最後に何かが残るというのではなく、私とは、その剥ぐ営為の過程にしか存在の感触を見出せない、その悲喜劇なのだ、尤も、今のところはだけれど。


 雲は、変幻を繰り返す。雲の正体を見ようと近づいてはいけないのだ。離れて、青空を背景に遠望しないといけない。それほどに私とは、デリケートな、掴み所のないものなのだ。今は、<私>を呼ぶのに、私という言葉があるから未だ、いいけれど、そのうちにそんな言葉さえ、愚かしいとか、ナイーブすぎるとか言って、冷淡に斬って捨てられてしまうかもしれない。
 斬って捨てられるのは私という言葉?それとも雲へと凝集させる意志? 
 それとも、引き裂かれた肉片を拾い集め、血飛沫や骨の欠片などを手で掻き寄せ、もう一度、形を無理にも織り成そうという足掻き? 貫通した肉の棒を喉深く呑み込む歓喜?

 

 広いキャンバスにペンキなどを無闇に飛び散らして、あるいは裸の身体を転げまわらせて、その一見すると偶然性の彼方に、何か一個の個性が垣間見えることを期待する。そう、身体と精神とは、とてつもなく深い闇の宇宙と
いう海に散在しつつ遊泳するプラナリアか原生動物か、せいぜい海月かイソギンチャク。大海に漂うプランクトンというデジタルな命の表象を追っている。
 それでも、命の生きることへの渇望の強さは、ひしひしと感じていたのだ。
 それ以外に、何がある?!
 その営みの激しさを後押しするのは、やはりその表現者を圧倒する現代というとてつもなく肥大化した物質群だ。心が物質に圧倒されている。心も精神も、量子的飛躍を起こして物質へと相転位したのである。
 物質的恍惚! 心は物質に寄り添う。だからこそ、ペンキを撒き散らす!

 

 物質の駆け巡る際の凄まじい風圧に身体も心も圧倒されて、せめてキャンパスに、そう原爆の炸裂の際に人体の蒸発する寸前、白壁に人の影らしきものくらいは映る、ちょうどそのように、飛沫の散逸の彼方に人間味の欠片の名残くらいはある…ものと祈ったのか願ったのか。
 けれど、そんな営為も、アール・ブリュ=生の芸術の営為も遠いセピアの光景に成り果ててしまった。
 今、心も身体さえも、霧よりも粒の小さい、不可視の粒子へと拡散してしまった。視野を不透明にする雲さえ、懐かしい。私とは「わ」「た」「し」であり、つまりは、風に吹かれて舞う浮遊塵なのだ。あらゆる人の名残を掻き集めて、やっと黄砂ほどには大気を濁らせることができる。


 散弾銃で吹き飛ばされた身体なら、せめて肉片や血飛沫くらいは手で掻き寄せることができる。でも、仮想の粒子となった身心というのは、位相空間の中のほんの戯れの果てに、遥かな宇宙の空間に飛散する。<私>にはもう、デジタル空間の点粒子として生きるしか残された道はないのだろうか。
 だとして、どうやって<私>へと凝集させたらいいのだろう。
 ああ、飛び散ったペンキの飛沫の偶然性に己の実存を夢見た日よ何処へ。

 

                       (04/11/08 作)
[ 本作品は、あるエッセイを下地に、虚構作品という特権を生かして、さらに妄想の念を高めてみたものです。元のエッセイは、ホームページの消滅と共に消え去りました。冒頭の画像は、ドリッピングアートの祖・ポロックの作品「Number 32」。創作を始めた頃は、夜毎、ちょうど今日のように丑三つ時に、抽象芸術作品を横目にドリッピング風に書き削っていたっけ。ポロックとは、ジャクソン・ポロック Jackson Pollockのことですが、名前、あるいは彼の世界と本作品の内容とは、架橋しようのないほど懸け離れているものと思います。 (23/11/20 記) ]