世の中に綺麗なものやこと、そして綺麗な人は沢山いる。

でも美しい人は少ないと思う。

美しい人はその生き方が美しい。

 

僕は美しい生き方をしているだろうか?

美しい生き方ってなんだろうか?

 

こんな言葉が頭に浮かんできました。

 

悪いことはしない

人の悪口は言わない

清く正しく生きる

 

これは、きれいな生き方かもしれない。でも生きている躍動感や内面的な感動につながっているんだろうか

 

「怖いくらいに美しい」という言葉があります。

人の身体は極度に興奮すると鳥肌が立つ。鳥肌が立つ状況や状態というのは、怖い時、寒い時、感動の極み時です。要は「鳥肌が立つほど美しい」ということです。「ゾクゾクするような美しさ」です。

 

私は人に感動を与えるような、人を動かすような、ゾクゾクとした生き方をしているだろうか。

 

まだまだ。どこかで、「良い悪い」という「きれい」に拘っている。

少しづつ、少しづつ考えていきたいことです。

 

 

他を圧倒する生き方、あり方、存在

 

これが「美しさ」の原点かもしれませんね。

圧倒していますがこれは相手に押し込むものではなく、相手を静かに引き込む魔力、魅力のようなものでしょうか。

 

 

それでもこんな美しさもあります。

 

以前注目されたTBSドラマ「JIN-仁」からのワンシーンです。

 

主人公である南方仁先生が、江戸で醤油工場(現ヤマサ醤油)を経営する

実業家浜口儀兵衛に言われた言葉の中にこんなせりふがありました。

 

「あなたの器は決して大きくないでしょう。しかし、とても美しい。

 だから皆が助けたいと思うのでしょう」

 

この中に出てくる“器”とは“人間の器”です。

 

そういえば、今まで人の器量を言う時、「人間の器」という言葉を使っていました。それは同時に器が大きい、小さいという話で、常にその人の器量を計るものでした。「人の上に立つ器がある」などもその一例です。

 

しかし、器には大きさだけでなく、美しさという別の観点があります。

そして中に沢山入れることは出来なくても、入れた料理を引き立てる役割もあります。

 

人間も同じではないでしょうか。

器に大小だけでなく美しさという見方を増やせば、同じ人にも別の面が見えてきます。

 

 

美しい生き方でなくても、いのちを全うすることは出来る。

求めた楽しさは自分を満たすことが出来る。でも満たされるのは自分だけ。

 

美しい生き方は他に影響をあたえる。他とは、同じときを生きる人ばかりじゃない。過去に生きた人から何かを貰い、未来に勇気をあたえる。

 

僕はいま、美しい生き方をしているだろうか。

 

 

女優の石田ゆり子さんがこんなことを言っていた。

 

「ずっと前から思ってた。本を読んでいる人の姿は美しいのに、スマホをいじっている人の姿は美しいとは思わない。」

 

FacebookもTwitterも、読めば心が震える。でも、その震えは怒りであれ、歓喜であれ、意図的に増幅されたものだ。文字というより胸に刺さる刃物のようなものだ。

 

読書は読者まかせになる。だから、読者の数だけ見える世界がある。言葉が異臭を放つこともあるが、心の震えを抑える役目も果たす。

 

SNSの言葉は、喜びであっても怒りであっても口語に近い。それでいて扱う文字は稚拙なものが多い。まったく美しくない。だから言葉から何も生まれないし風景も浮かんでこない。だだ情報としてその場の感情を垂れ流している。

 

ここに、オードリーヘップバーンの名言がある。

 

「美しい唇である為には、美しい言葉を使いなさい。美しい瞳である為には、他人の美点を探しなさい」

 

美しく生きていくための知恵のような気がする。