「世の中は美談に溢れている」

ちょっと斜に構えた言い方をしてみた。

 

人は美しいものに憧れる。美しい話をしたくなる。感動したくなる。

しかし、その前提に正反対の過酷な現実を求める。

苦労なしには誰も今の現実を美談として語ってくれない。

 

美談とは陽と陰の組み合わせだ。そして最後は陽で終わらなければならない。

パーピーエンドのない美談は存在しない。

美談の主人公は、必ずしあわせにならないといけない。

 

 

でも現実はもっと過酷だ。

最後が必ずハーピーエンドとはならない。

苦境だけで生涯を終える人がほとんどだ。

 

でも本当は、美談にならない部分にこそ生きる源泉がある。

 

人を観るとき、その人の一番影の濃いところを観る、それが大事だと思う。

その人の影の部分にうごめいた、憎悪や嫉妬などの醜さを受け入れる許容さが必要だ。

 

それは後に美談にならなくても同じことだ。

上澄みのような美談を聴いたら、川底に淀む泥のような感情を想像したい。

 

「闘病記」には、躊躇して書き淀んだ負の感情があった。

それを書けば読み手がどう思うかと、自分の死を空想する時でさえ綺麗ごとにしようとする。

そして、そんな自分の哀れさにふっと張りつめたこころが緩む。手が止まる。

 

闘病記の作者はいま、どんな顔をしてこの記を書いているのだろうか?