大樹のブログ


長崎港に清国北洋艦隊が来襲する恐れがあるとして


警備が強化される一方で、
新聞・雑誌の検閲も始まった。


軍隊に検閲係ができ、


情報が骨抜きになることも多かったが、


勇ましい光景などが強調される記事や


画集が読者の関心を呼び、

同時に新聞の体裁も一新された。


徳川 大樹


      長崎の歴史

 県内の各新聞は戦線が拡大するに従って従軍記者を


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戦地に派遣。画家も同行させ、
戦地のスケッチを掲載した。


身内を戦地に送った留守家族は肉親の安否を気遣い、


新聞に情報を求めた。戦勝のたびに号外も出され、


地方や辺地まで配達される新聞の購読熱をあおった。


それまで、一種のぜいたく品と見なされていた新聞が、


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市民に身近なものとして普及する大きな転機となった。


徳川 大樹


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経済的にも清国と深い関係にあった長崎にとって


衝撃は大きかった。それでも国家の危機意識の中、

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清国人への石炭売り止め運動などが起き、


当時の在長崎清国領事館は清国人の保護を


米国領事館に託して本国に引き揚げ、


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これに続いて在留清国人も長崎を次々と後にした。

開戦後、長崎に残った清国人は二百六十七人に


すぎなかったという。


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