大樹のブログ

 ■ついに日露が開戦


 二月八日に外交交渉を進めていた外務省から


「妥結の望み絶ゆ」の声明が出されると、


県内の新聞は号外で伝え、


県民に戦時下に向けた決意を促し、


ロシアとの開戦に備えた。


 日露戦争開戦の報道はもちろん重大ニュースとして


各紙が報じたが、県内の新聞では「東洋日の出新聞」


以外に保存紙がなく、詳細は不明だが、同紙によれば、


日露開戦を報じる紙面は同年二月十一日付から始まり、


四月下旬になると日本軍の勝利が続き、


五月には戦勝を祝う「提灯行列」が催された。


「参加市民一万二千人、見物客五万人の行列風景」


が二ページにわたって報じられた。


徳川 大樹


長崎の歴史


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 一九〇四(明治三十七)年が明けると、


日露両国の関係は緊迫のピークを迎える。


ロシアとも貿易などで深い関係にあった長崎や、


軍港・佐世保にも情報が刻々と伝えられた。


例年なら春になると長崎に来航、


停泊するロシア東洋艦隊が、この年は姿を見せず、


開戦は必至とみられていた。


徳川 大樹


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■ロシアと対立激化


 日清戦争は平壌、大連、


旅順などでの日本軍の勝利や、


佐世保から出撃した連合艦隊が黄海海戦などで


清国北洋艦隊に圧勝。日本優位のうちに停戦となり、


下関講和条約が結ばれた。


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 しかし、講和条約で日本に割譲が決定されていた


遼東半島について、
南下政策で満州(現在の中国東北部)


に権益を広げていたロシアは、ドイツ、


フランスとともに清国への返還を要求(三国干渉)。


日本は列強の圧力の前に受け入れざるを得なかったが、


このことがその後の日露関係に暗い影を落とす。


徳川 大樹


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