「ファンをやめる」という表現について その1(加筆・修正あり)~ずっと考えていたクリスマス | 心にうつりゆくよしなしごと~浅き夢見じ

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デルジベット、バクチク、そしてV6が好きです。映画がきっかけで、関ジャニ∞の大倉忠義くんが好きになり、ファンクラブ入会。V6が解散しても、岡田准一くんや三宅健くんを慕ってやみません。


昔・・・あるライブ中、ヴォーカルの人がMC中に、私のことを「あるファンの子が・・・」と言ってくれたことがありました。ちょうど12月25日のことでした。
それ以来、私の中で、「ファンって、一体なんだろう?」と自問自答することが増えました。また、「ファン」として自分はどうあるべきか?なんてことも、若いながらに苦しい思いで考え続けました。

話はつい先日のことに戻ります。
あるアイドルグループのメンバーが結婚したことで、こんな言葉を聞くようになりました。

それは、「ファンをやめる」という表現です。

いいたいことはわかるのですが、なんだか自分が使うのには違和感がある言葉だと思ってきました。

そもそも、「ファン」は会社員とか部員とかではありません。(よね?)それを、「会社をやめる」とか「部活をやめる」みたいに所属を離れるかのように表現するところがどうにも腑に落ちないのです。

むしろ「ファンクラブをやめる」と言う方がまだしっくりくるくらいです。

 

拡大解釈をすれば、それこそ「応援活動をやめる」=「ファンをやめる」と表現しているのかもしれませんが、そうだとすると、ファンとは単なる「応援活動家」なのか?それとも「愛好家」なのか?

 

実際の生活の中では、たとえコンサートに行かなくても、CDを一枚も買ってなくても「私、○○のファンなのよ。」という会話は普通に成り立ちます。逆に、ツアーが始まると遠くまでコンサートを観に行ったり、売り上げに貢献したくてたくさん同じCDやグッズを買ったりする人だって「私、○○のファンなのよ。」です。もちろん頭に「大」の字がつくのでしょうが。

(「追っかけ」と呼ばれる人や、「グルーピー」というのもありますが、これらはここでは取り上げません)

つまり、費やした時間やお金とは関係なく「熱情的に愛好する者あるいは支持する者」を「ファン」とするのが妥当ではないかと思うのです。

 

ここで、一応「ファン」の語源なども確認したいと思います。

ウィキペディアを参考にします。

「『ファン(英語:スペルはfan)』は、特定の人物や事象に対する支持者や愛好者のことである。

【熱狂的な】という意味をもつ『ファナティック(英語:スペルはfanatic)』の略である。

なお、対義語は『ヘイター(hater)』、特定の人物や事象に対する嫌悪者のこと。」(加筆してます)

 

上記からすると、やはり「愛好」という表現が出てきました。そして、語源が語源なのでニュアンスとして「熱狂的なファン」までを含む言葉になっているようです。特定の人やグループの熱心なファンを指して「信者」と呼ぶのもうなづけます。そして「信者」に譬えられるくらいのファンは、頼まれもしないのに、熱心に進んで応援に励むわけですから見上げたものです。でも、時には色んなことを犠牲にすらします。家庭をほっぽり出してしまうこともあります。育児を放棄してることもあるかもしれません。傍から見ていると、大変あぶなっかしいため、心配されてしまったりするようです。(筆者の体験を含む)

 

ここで、初めにも書いたように、「ファンをやめる」という、私が強い「違和感」を覚える表現についてもう一度考えてみます。

「ファン」を、「過度に時間やお金を費やし、手間をかけて応援する熱心な愛好者」として捉えれば、それらの「応援活動をするファンであることをやめる」という意味になります。これからは、心穏やかで緩やかな「愛好者」としての道をお進みになりたいのかもしれませんが、そう簡単に転身できないのが実際のところでしょう。

 

一方、「ファン」を「愛好者」として捉えると、「愛好者であることをやめる」→「好み、愛することをやめる」という意味になってしまいます。しかし、そもそも「好きでいること」は「活動」ではありません。「愛すること」も「行動」とは違います。活動で表したり、行動で伝えることはできるでしょうが、そこにある好意も愛着も「目にはみえないもの」なのです。

「やめる」という意図的で目に見える行為を思わせる表現と、目には見えない「愛好する」という気持ちの表現とが、どうにもしっくり結びつかないのです。

 

そもそも・・・私の場合は

「ファンになろう」と思ってファンになったことなど一度もない

のです。

気がついたらもう・・・堕ちている、そう・・・まるで「恋」に落ちるときのように。

そして、どれもこれも大きな恋で・・・ラブラブしかも、この恋心を30年以上抱えて生きているわけです。

さらには対象が一人から二人になり、今では三人になっています。油断すると、このパワーは持て余すほど大きくなってしまいます。

コントロールしたり、維持したりするのが大変なので、無意識のうちに省エネモードにしているらしく、Aのことを考えているときは、BもCも思い出さないことが多いです。もちろん罪悪感などもたずに三つの恋を同時進行させながら生きています。疑似恋愛ですから、主導権はこちらにあります。殴られることも、罵られることもなく、堂々と三つ股をかけられます。

 

だから、その「恋」から「覚める」、あるいは熱くなった恋心が「冷める」ことはあっても、「やめる」ということはできないのです。

 

つまり、「ファンをやめる」という表現は、厳密には実現不可能なことをいっているように思えて仕方がないのです。

 

できもしないことを「やめます」「やめます」と、世界中の人に発信している(このアメーバブログだって、海外から読めます)その行為こそ、やめたほうが・・・(言いたいことはお察しください)

 

そんなことを思ったり、感じたりしながら12月22日から・・・28日の夜、ライブ直前までモヤモヤしていました。

 

帰宅して一段落して、31日の今朝になって、やっと言いたいことの半分(えっ?)が書けましたので随分、すっきりしました。

 

28日の日本武道館で、バクチクの本編ラストの曲「コスモス」のコーラスをしながら私が泣いてしまったのには、こんな背景があったのです。

 

 

ファンの、「愛だけ」がそこにある・・・そんな幸福感に包まれて、感極まりました。汗

少なくとも、自分の中に彼らに対する純粋で「大きな愛」があることを感じられました。

「愛」というより、「感謝」かもしれません。

あのとき、恋する相手から感じたのは、自分たちへの「愛」

そして、その場にいない多くの人たちへの「愛」

愛だけが そこにある・・・そんな場所の入り口が少し、「みえた」ような気がしたのでした。

 

 

そして、改めて・・・

「素敵な表現者たちのファンであることを通して、多くの愛を学び、心の修行をしていきたい」

と思うのです。私の心は邪念や闇に満ちている部分もあります。葛藤も多い日々です。

でも、求めるものは 美しいもの、輝くもの、そしてそれを伝える「言葉の正しさ」です。

 

このブログは・・・たんなる趣味です。遊び場です。箱庭療法を言葉で試しているような場所です。と同時に、色んなことを深く考えるきっかけをいただける貴重な場です。

 

今回は、気になる表現「ファンをやめる」をきっかけに、自分にとっての「ファン道」のようなものを追求することとなりました。その1としているのは、「意味」を考えることに重きをおいた内容に絞ったからです。本当に書きたかったのは、この表現をつかう「ファンの心理」です。いずれまた、続きが書けたらいいなと思っています。

 

1月17日にアップした「その2」です。

続きです。

 


にほんブログ村最後までお読みくださり、ありがとうございました。大晦日の早朝に、他にやることはあるでしょう?と叱られそうですが、1年中で最も「自由人」になれる冬の休暇なので、書きたくても書けなかったことや、まとめきれなかったことなどをアップできたらいいなぁと思います。大掃除は、その合間に・・・