ロビーは薄暗かった。雨は降りつづき、黒ずんだ窓には水滴が輝きながら落ちている。それを見ていると様々な言葉があらわれた。『ストレイシープ』『pity's akin to love』『ヘリオトロープ』『ハイドリオタフィア』――そう、高槻さんはこう言っていた。
「しかし、当の本人はその『ハイドリオタフィア』の意味を正確に理解してないんですね。僕はそこに否定の予感を持ちました。この時点での三四郎は広田先生に興味を持ち、尊敬もしてるのでしょう。ただ、漱石は広田先生に間違いを埋め込んでるんですね。これは雲を『雪の粉』と説明する野々宮くんと『雲は雲でなくっちゃいけない』と言う美禰子に視線の違いがあったのと似てるように思えます。その隔たりはわずかなものかもしれない。でも、それはじきに広がり、引き離される可能性がある。美禰子と野々宮くんがそうであったように三四郎も広田先生と距離を置くことになると示してるように思えるんです」
私は自分の内側を覗きこむようにした。――大丈夫。私たちはそうならない。隔たりを越えられる。これは初めて会ったときから決まってたことなんだ。
「結月ちゃん、」
かすれた声に振り返ると真っ白な髪をおろした順子さんが立っていた。昌子さんはその顔を覗きこんでいる。
「あの、」と言い、私は頭を下げた。
「本当にすみませんでした」
「なんで謝るの? ね、結月ちゃん、あなたに謝らなきゃならないことがあるの?」
「そりゃ、昴平ちゃんがあんなことになったんだもん。この子に悪いとこがまったくなくたって、すみませんくらいは言うわよ」
「あなたは黙ってて」
落ちこむように座り、順子さんは顔をあげた。目は百合へ向けられている。
「あのね、結月ちゃん、私の方こそ申し訳なく思ってるのよ。昴平がしたことは簡単に許されるようなことじゃないもの」
「でも、それは私から言ったことで。――あの、高槻さんは悪くないんです。何度も駄目だって言ってたのを私が、」
「そうだとしてもそれで済む話じゃないのよ。いい? あなたはまだ高校生でしょ。昴平はもう三十過ぎのおじさんなの。いくらお互いに好きだって言ったって、――あのね、昴平はあなたと逆のこと言ってたのよ。自分の方から誘ったってね。きっとそうした方がいいって思ってたんでしょ。ま、あなたの伯母さんがそうじゃないらしいって言ってくれたから、その、なに? 大事にならずに済んだけど」
髪が揺れるほど頭を振り、順子さんは深く息を吐いた。眉は中心に寄っている。
「だけど、これは簡単に済むような話じゃないわ。ね、結月ちゃん、これからどうするつもりなの?」
「どうするって、これからも愛し合っていけばいいんじゃない。違う?」
「あなたは黙っててって言ったでしょ」
「いいえ、黙らないわ。いい? 順子ちゃん。この子はね、ほんとに真剣なの。昴平ちゃんもよ。わからない? 昴平ちゃんみたいな子が生半可な気持ちでそんなことするわけないでしょ。この子だってそう。ほら、ちゃんと顔を見なさい。これは真剣に昴平ちゃんを愛してる顔よ」
順子さんは目を細めた。唇は痙攣するように震えてる。
「なんでこうなっちゃうんだろ。ほんと、あの子はあの人の子供だわ。あの人も無鉄砲で無茶苦茶な人だった。昴平にも似たとこがあるわ。私は心配なの。怖いのよ。あの子もあの人みたいになっちゃうんじゃないかって」
「そうはならないわよ」
「いいえ、なるわ。そうじゃなきゃこんなことにはなってないでしょ?」
ひざまずき、私は顔をあげた。百合は頬にあたってる。その香りは言葉を促していた。
「あの、訊いていいですか? 順子さんは後悔してます? その人、高槻さんのお父さんとそうなったのを」
「なんでそんなこと訊くの? それがこれとどう関係あるっていうのよ」
「知りたいんです。高槻さんはお父さんのお墓の前でこう言ってました。自分とこの人には繋がってる部分があるって。この人の失敗も、求めたものも、失ったものもよくわかる。それは自分の失敗だし、求め失ったものだって」
目は時間をかけて歪んでいった。顎を引き、私はこう言った。
「高槻さんは私を助けてくれたんです。そうじゃないって言ってたけど、でも、助けてくれたんです。そして、たぶんだけど私も高槻さんの助けになったんだって思ってます。私たちはそうやって、お互いを助けあいながらこうなっていったんです」
「だから?」
「だから、――あの、生意気なこと言うようですけど、私、思ったんです。順子さんも高槻さんのお父さんに助けられたんじゃないかって」
顔を覆い、順子さんはしばらく黙った。雨粒がガラスに無軌道な模様を描いてる。でも、私にはその意味がわかった。意味なく存在するものなどないのだ。
「あなたでしょ、こんなこと話したの。ほんとおしゃべりだわ。――だけど結月ちゃん、人を愛しつづけるのってそんなに簡単なものじゃないのよ。それにあなたはまだ若いわ。ううん、若すぎるくらいよ。きっとこれからたくさんの人に会って嫌でも変わってくの。いまは昴平を愛してるって思ってるのかもしれないけど、それだって変わっていくかもしれないのよ」
腕をつかみ、私は顔を寄せた。涙は流れ落ちていく。
「変わりません! 私は変わりません! 信じてください!」
順子さんはなにか言いかけた。でも、肩を叩かれると目をつむった。
「はい、もうこうなったらどうしようもないわ。違う? それに私はこの子を信じられる。昴平ちゃんのことだって信用してるの。そりゃ子供の頃にはいろいろあったけど、それだってあの子の心が真っ直ぐだからよ。でも、結月ちゃん、これからだって大変なことはたくさんあるわよ。あなたたちはそれに耐えなきゃならないの。その覚悟はある?」
「あります」
「そう。ならいいでしょう。愛したならそれをずっとつづけるの。本当の愛には中途半端なんてないのよ。命を懸けるの。それくらいの覚悟で昴平ちゃんを愛してあげなさい。おばさんはずっと見てるからね。監視してあげる。ね、順子ちゃん、あなたもそうするのよ。この子たちの気持ちが変わらないように私たちが監視するの。そうしとけば問題無いわ。そうでしょ?」
真っ直ぐに見つめられると表情はなくなっていった。そして、その顔をゆっくり向け、呟くようにこう言った。
「そうかしら? ――まあ、そうなんでしょうね」
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