それからのことはよく憶えていない。なにかが痞えて出てこないのだ。未玖が入ってきたのと、その後につづいた幾つかの喚きだけが残ってる。それからはまったくの無だった。私は深淵に落ちこんでいた。そこは暗く、すぐ前にあるものさえはっきりとは見えなかった。手を伸ばせばなにかには触れる。でも、それが一体なにかわからないのだ。声を聴きたかった。あのうわずった声を。顔も見たかった。だけど様々なことがそれを阻害していた。
幾日か後に私は蒼い樹へ向かった。しとしとと雨の降る木曜のことだ。カウンターには昌子さんがいて、顔を見た瞬間に唇を反らした。
「来たわね。そろそろじゃないかと思ってたわ」
「あの、順子さんは?」
「病院よ、昴平ちゃんのね。かなり参ってるようだけどそうも言ってられないもんね。――ほんと困った子よ。こういうのはこれで二度目じゃない」
コーヒーを出し、昌子さんはカウンターに肘をついた。目は抱え持つ百合へ向かってる。
「元気そうでよかったわ。心配してたのよ。昴平ちゃんはずっとあなたのこと話してるくらいだもの。今なにしてるんだろうとか、嫌な思いをしてないだろうかってね。煩いったらないわ。ちょっと苛々するくらいよ」
唇を引くようにして昌子さんは笑った。それから、指先をじっと見た。
「私も伯母さんとお会いしたのよ。それは聴いた?」
「はい」
「昴平ちゃんに教えてもらったわ、お母さんのこと。面会できるようになった初日にね。あの子って順子ちゃんに言えないことを全部押しつけてくるのよ。ま、私はあの子の母親ナンバーツーみたいに思ってるから嬉しくないこともないんだけど」
指から目を離し、昌子さんは一瞬だけ私を見た。
「変に誤解しないでね。昴平ちゃんは隠そうとしてるわけじゃないの。ただ、あんなことがあった後に言うのもどうかと思ったみたいね。いずれは言うつもりなんでしょ。私もそうしなさいって言ったわ。順子ちゃんならそれでああだこうだ言ったりしないはずだからって」
顔をあげ、私は正面を見つめた。向けられた表情はすこしずつゆるんでいった。
「ま、良くないことはあったものの最悪じゃなかったってことにしときましょうか。これであの子が捕まってたら、もう目も当てられなかったけど。それについてはあなたにもお礼を言うべきなのかしら。伯母さんもそうだけど、警察の人も呆れてたわ。あんなに言われたらしょうがないってね。そうそう、昴平ちゃんも言ってたっけ。あなたは頑固者だって」
「だって、本当のことですから。私はあったことを言っただけです」
「その、本当のことを言うってのがけっこう難しいのよ」
自分にもコーヒーを注ぎ、昌子さんは口をつけた。目は窓の外へ向けている。
「誰もがほんとのことを言えるわけじゃないのよ。嘘とまではいかなくても、自分を守るために事実と違うことを話す人もたくさんいるの。私だってそういうとこがあるわ。思い出したくないことや、口にしたくないことが多いからね。だけど、あなたはちゃんと本当のことを言ってくれた。それで昴平ちゃんは救われたの」
時計を見て、昌子さんは細かくうなずいた。それから、首を伸ばして百合を見つめた。
「じゃ、そろそろ片づけちゃおうかしら。閉店までまだ少しあるけど、この調子じゃ誰も来そうにないしね。お見舞いに行きたいんでしょ?」
「はい、できれば」
「そうなると、やっぱり私が連れて行くことになるのよね? ま、いいでしょう。ちょうどいいんじゃない? 昴平ちゃんと会う前に順子ちゃんに会うつもりだったんでしょうから。それには私もいた方がさらに都合がいいってことになるわ」
私はうつむいた。そうしてるとふいに涙が零れてきた。
「あの、順子さんはどう思ってるんですか? ――その、私のこと。それに高槻さんとのことも」
「それは本人に訊きなさい。大丈夫よ。私がいたらさほど深刻にはならないから」
昌子さんは奥へ引っ込んだ。雨はすこし強くなったようだ。百合の香りは足許へ沈んでいった。
「さて、あとは看板しまっておしまいよ。待たせちゃったわね」
「いえ。――あの、ありがとうございます。いろいろしてもらっちゃって」
「そんなのいいのよ。さっきも言ったでしょ、私は昴平ちゃんの母親ナンバーツーなんだって。ってことは、いい? 私はあなたの母親でもあるのよ。どんなことだってしてあげるわ」
看板を入れると昌子さんは笑いながら覗きこんできた。
「ところで、あなた、一度鏡を見てきなさい。顔を洗うの。わかった?」
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