「あの、」
「ん?」
「お祖父さんが絵描きで、その花瓶に百合を活けたのを描いたって話なんですけど、」
「言うと思った。君はあれも読んでくれてたんだもんな」
「はい。読んだときは綺麗な話だなって思っただけなんですけど、」
「なにか他に思いついたことがあった?」
風に窓は軋んでる。花は自らの重さに項垂れ、香気を下へ放ってるようだった。
「あれにも自分のことっていうか、経験したことが入ってるんですか?」
「どうしてそう思った?」
「あの主人公は人物を描けなくなってたわけじゃないですか。それが若いモデルに出会うことでまた描けるように思えてきたって話でしたよね? それまではずっと百合だけを描いてて、」
「そうだ。あの画家はなぜか百合だけを描いてる。最後のシーンではそうじゃなくなるけど何度も見てはいる。だけど、あれのどこに経験が入ってるって思ったんだ?」
「よくはわからないんですけど、どことなく『蛇』の主人公に似てるように思えたんです。読んだときはそうじゃなかったけど、さっきそう思いました」
「どういうところが?」
「その、昔のことを気にして動けないっていうか、踏み出せないようなところが。『蛇』ではそれが終わりまでつづくけど、あの話だと最後にすこしだけ変化があって、」
「それは僕も同じだっていうのか?」
私はうなずいた。高槻さんは目を細めてる。
「まあ、そういう読み方があってもいい。でも、あれはそういうつもりで書いたんじゃない。講義のときも何度か言ったけど『三四郎』に『花は必ず剪て、瓶裏に眺むべきものである』ってのがあったろ? それを元にしてというか、まあ、下敷きにして書いたつもりなんだ。それに『夢十夜』からもだな。その第一夜だ。それを継ぎ合わせた話なんだよ。――いや、違うか」
「え?」
「今のも本当のつもりだけどそれだけじゃないようだ。正直いうと、どうしてああ書いたかわからないんだよ。ただ、君が言ったような部分もきっとあるんだろう。僕は過去を引きずってる。それはずっとつきまとってるんだ。それが意図せず出てしまってるんだろう」
囁き声は風の音にすら掻き消されそうだった。高槻さんは目をつむり、深い息とともにこう言った。
「決めたんだ、君に嘘はつかないってね。ついたってすぐにバレるんだろう。そういう気がする。だから、素直に思ったことを言うよ」
鈴の音がした。高槻さんは表情を変えて水を持っていった。私は脚をぎゅっと閉じた。鼓動は高まっていた。
誰もいなくなると高槻さんは片付けをはじめた。声だけが聞こえてくる。
「どんなときだってやらなきゃならないことはある。生活するってのはそういうものなんだ。明日のことを考えたら今日のうちにすべきことがわかる。使った食器なんかは洗っておかないとね」
「手伝います」
「いいよ」
そう言って、高槻さんは顔を突き出した。頬は薄く歪んでる。
「前にもあったな、こういうの。で、君はこう言った。でも、二人でやった方が早く終わります。――じゃ、シンクに溜まったのを洗ってもらえる? スポンジは脇にあるから」
私はカウンターに入った。そこからは暗い空間と街灯の滲んだ窓が見えた。カチッと音がして、けむりが漂ってきた。
「つづきを話そう。『活けられた花』のね。さっきも言ったけど僕は『三四郎』の『花は必ず剪て、瓶裏に眺むべきものである』と『夢十夜』を元にしてあれを書こうと思ったんだ。君は読んでないって言ってたよね?」
「はい」
「あれはだいたいが奇妙な話なんだけど、第一夜にはとくに不思議な雰囲気があるんだ。その話は横になってる女と枕元に座る男の会話からはじまる。女は『もうじき死ぬ』って言うんだ。でも、男は本当に死ぬんだろうかと思うんだ。血色が良くて死にそうに見えないんだな。ただ、女は死んでしまう。その間際に『自分が死んだら埋めて、その横で待っていて欲しい』って言うんだ。『百年待っていてくれ』ってね」
「百年、ですか?」
「ああ、百年だ。女はこんなことを言う。『日が出るでしょう。それから沈むでしょう。それからまた出るでしょう、そうしてまた沈むでしょう。赤い日が東から西へ、東から西へと落ちてゆくうちに、あなた、待っていられますか』ってね。男は待ってるとこたえる。そして墓の横にずっと座ってる。筋自体も奇妙だし、この男も変なんだ。生きてるって実感がないんだな。まあ、夢の話だからっていえばそうだけどそれにしても妙だ。男はただじっと待ってる。それは女に会えるのを願ってなんだろうけど、そういう熱が感じられない。ぼうっとしてるんだ。でも、とにかく男は待ってる。そのあいだも日が昇り、沈み、また昇って、沈んでいく。しばらくしてから男はふと思うんだ。もしかしたら女に騙されてたんじゃないかってね」
私はシンクを探っていた。高槻さんも手を入れ、栓を抜いた。細かな泡を回転させながら水は吸い込まれていった。
「そう、それでね、男は騙されたんじゃないかって思うんだ。そのとき墓から茎が伸びてくる。するすると伸びて、男の前へくる。それが白百合なんだ。蕾がひらいて、甘い香りがする。そこへ空から水滴が落ちてくる。男は花へ顔を近づけ、口づけをする。それで気づくんだ。もう百年経ってたんだってことにね」
フォークを洗いながら私は目を細めた。暗い背景に光を浴びた百合は美しかった。説明を必要としない、不自然さの欠片もない、存在自体の美が活けられている。高槻さんも同じものを見てるようだった。
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