小説『stray sheep』先頭へ

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「結末を知らないつもりで話しましょうと言いましたが、いい機会だからすこし先走ってしまいましょう。いま加藤さんが仰ったように、この三人はずっとこのままの関係で終わってしまうんです。それだけでなく、この小説はぐるっと回ってもとに戻るかのように終わるんです。ただ美禰子がいなくなるというだけでなにも変わらないんですよ。あるいは美禰子は絵の中へ閉じこめられてしまうんですね。それを三四郎や野々宮くんを含めた男たちが眺めるところで終わります。もし二人の内のどちらかが加藤さんの言ったように強い気持ちをもっと早い段階であらわしていたら結末は変わっていたでしょう。――いえ、これじゃ創作に関する話じゃなくなってしまいますね。漱石はそのように物語を構成し、それに従って書いただけですから。ただし、僕たちは読むことで学ぶことができます。現実世界で同じような立場に立たされたらどうすべきかってことをね」

 

 

 表情を変えることなく高槻さんは本を取った。目は二方向へはしらせている。

 

 

「では、つづきをはじめましょう。ええと、さっき読んだところのすぐ後ですね。二百十八ページです。与次郎がこう訊いてきますね。

 

『「あの女は君に惚れているのか」

 

 二人の後から続々聴講生が出て来る。三四郎はやむをえず無言のままはしだんを降りて横手の玄関から、図書館傍の空地へ出て、始めて与次郎を顧みた。

 

く分らない」

 

 与次郎は暫らく三四郎を見ていた。

 

「そういう事もある。しかし能く分ったとして、君、あの女のハスバンドになれるか」

 

 三四郎はいまだかつてこの問題を考えた事がなかった。美禰子に愛せられるという事実その物が、かの女のハスバンドたる唯一の資格のような気がしていた。いわれて見ると、なるほど疑問である。三四郎は首を傾けた。

 

「野々宮さんならなれる」と与次郎がいった。

 

「野々宮さんと、あの人とは何か今までに関係があるのか」

 

 三四郎の顔は彫り付けたように真面目であった。与次郎は一口、

 

「知らん」といった。三四郎は黙っている』

 

 ここでも三四郎は野々宮くんを気にしてます。まあ、こんなことを言われたら気にならないわけにはいかないでしょうけどね。そして三四郎が美禰子を好きだという前提がはっきりした上でのことですから、その先の話になるんですね。つまり、結婚できるかという実際的な話です。三四郎は『美禰子に愛せられるという事実その物』を彼女の夫になれる資格と捉えていたようですが、それだけじゃ駄目でしょうね。漱石はすこし前に三四郎を自惚れさせ、すぐ現実に引き戻したわけです」

 

 

 緊張を払うように高槻さんは微笑んでいる。加藤さんはうつむいたままだった。

 

 

「その後で三四郎はまた美禰子から冷たい態度をされてしまいます。漱石は手を休めませんね。動揺をあたえてるんです。これは物語が終盤にさしかかってるのを示してるとも思えます。それまでゆるゆると進んでいた話が展覧会での美禰子の行動と与次郎の『君、あの女を愛しているんだろう』という台詞をきっかけとして俄然動きはじめるんですね。その中に漱石は小道具を埋め込んでもいます。これも巧い書き方ですよ。二百二十ページをひらいてください。

 

『二人の女は笑いながらそばへ来て、いっしょ襯衣シャツを見てくれた。しまいに、よし子が「これになさい」といった。三四郎はそれにした。今度は三四郎の方が香水の相談を受けた。いっこう分らない。ヘリオトロープと書いてある罎を持って、いいげんに、これはどうですというと、美禰子が、「それにしましょう」とすぐめた。三四郎は気の毒な位であった』

 

 冷たい態度をしていた美禰子が適当に選んだ香水を即決するんですね。これは気を持たせる行動ですよ。みなさんも経験したことがあるかもしれませんが、好きな人がいいと言ったものは自分にとってもいいものに思えるってことありますよね。三四郎は気の毒に思ったようですが、すくなくとも読み手はこの行動を否定的に捉えないでしょう。うん、こういうふうに書くと効果的なんだなと考えさせられます。しかも、さらっと挿し挟まれてるように思えますが、これはまあまあ重要な置き石にもなってるんですね」

 

 

 時計に目を落とし、高槻さんはうなずいている。それから、早口にこう言った。

 

 

「今日はちょうどに終われそうですね。かなりいい議論もできた上にぴったり終えられるのは嬉しいことです。この後は国許からのお金が三四郎の手に渡る経緯と、ふたたび美禰子を間に挟んだ野々宮くんとのやりとり――とはいっても激しくないものですが――まあ、そういうのがあります。その中にも漱石はさらっと置き石を忍び込ませています。ただ『よし子に縁談の口がある』と書いてあり、それについての兄妹の会話があります。これが後にどう発展するかなんてことはまったくにおわさずに入れ込んでるんです。これも巧いなあと思いますね。で、二百二十七ページにはこうあります。

 

『三四郎は母から来た三十円を枕元に置いて寐た。この三十円も運命の翻弄が産んだものである。この三十円がこれから先どんな働きをするか、まるで分らない。自分はこれを美禰子に返しに行く。美禰子がこれを受取る時に、また一煽り来るにきまっている。三四郎はなるべく大きく来ればいと思った』

 

 この前には『上京以来自分の運命は大概与次郎のためにこしらえられている』という一文があります。いまの部分での『運命の翻弄』も与次郎由来のものですよね。しかし、本当の『運命の翻弄』は別のところに用意されているんです。まあ、これも先走って言うと、さっきの『よし子に縁談の口がある』というのがその用意された運命なわけです。でも、それは次の章でわかることなので今日はここまでにしましょう」

 

 

 

 

 終わった瞬間に未玖はスマホを取り出した。指を動かしながら小声で話してる。

 

 

「じゃ、私は約束があるからさっさと帰るわ。さっきの、ほら、魔性の女がいろいろ言ってたの、あれについてどう思うか昴平さんに訊いといて」

 

 

「なんでよ。自分で訊けばいじゃない」

 

 

「だって、約束があるんだもん。すぐ行かなきゃならないの。――あ、ほら、また見てる。ね? 早いとこはっきりさせとかないと面倒なことになるのよ。そういうのはあっちの三人に任せて結月は自分の気持ちにきちんと向きあうのね」

 

 

 すっくと立ち、未玖は亀井くんを睨むように見た。そして、よく通る声を出した。

 

 

「先生、結月が今日の内容について質問したいんですって。じっくり聴いてあげてください」

 

 

「あ? ああ、わかった」

 

 

「じゃ、じっくり聴いといて。で、後で報告してね」

 

 

 ドアへ向かう途中で未玖は教卓の前に立った。

 

 

「ん? なに?」

 

 

「いいえ、なんでもありません。結月をお願いしますね」

 

 

 


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《雑司ヶ谷に住む猫たちの写真集》

 

 

雑司ヶ谷近辺に住む(あるいは
住んでいた)猫たちの写真集です。

 

ただ、
写真だけ並べても面白くないかなと考え
何匹かの猫にはしゃべってもらってもいます。

 

なにも考えずにさらさらと見ていけるので
暇つぶしにどうぞ。