小説『stray sheep』先頭へ

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 水曜の朝はすこし頭が痛かった。

 

 

 陽光はすべての際をくっきりと見せている。私は鏡の前でしばらく目をつむった。網膜に映るあらゆる物が著しく異なって見えたのだ。

 

 

 日曜の遅い時間に電話をかけてきて、未玖は早口で捲したてた。

 

 

「まずは報告しとくわ。結論からいうと最後まではしなかったの。だけど、つきあうことにはなったのよ。今日の映画も代打なんかじゃなくって、ちゃんと私を誘ってくれたんだって」

 

 

「え? そう訊いたの?」

 

 

「もちろん。はじめにちゃんと訊いといた方がいいでしょ。そんときはまだすることになるかもって思ってたから、どういうつもりかリサーチする必要があったのよ。でね、なんだか本気っぽいって思えたの。先輩はほんとに私のこと好きみたい」

 

 

 そこで息を止め、未玖は静めた声を出した。

 

 

「だから、もうやっちゃってもいいかなって思いはしたのよ。だけど、向こうはそういう感じじゃなかったみたい。ま、噂ほどじゃなかったってことよね。というわけで、キスだけしたの。まずはマーキングってことよ。互いを自分のものにする印をつけたの。それに明日も会うことになってんの。もう、半田先輩ってかわいいのよ。ずっと、ほんとずっと私の顔見てるんだもん」

 

 

 私は笑いだしてしまった。未玖は最後にこう言った。

 

 

「ま、そういう感じ。遅い時間に電話してごめんね。ラインにしようと思ったんだけど言葉がまったく浮かばなかったの。興奮しちゃってるのよ、眠れないくらい。ああ、明日はどうなるんだろう? こんな状態で求められたら絶対しちゃうわ」

 

 

 

 

 

 教室には誰もいなかった。私はバッグを覗きこんだ。ドアがひらき、堀田さんと川淵さんが顔を出した。すぐ後には亀井くんも来た。ほどなくして未玖が入ってきて、「ああ、間に合った」と言った。目は細められている。

 

 

「また見てる。ほんと気色悪い」

 

 

 私はゆっくり振り向いた。三年生がばらばらとやって来て、最後に安川さんが入ってきた。陽射しは強く、座っていても汗ばむくらいだった。

 

 

「今日もこれが終わったら会うことになってんの。それで準備に手間取っちゃったのよ。できれば毎日顔を見たいんだって。だけど、そんなだと小説書けないじゃない。困ったもんだわ」

 

 

「困ってるふうには見えないけど?」

 

 

「そう? でも、困ってはいるの。恋をするとこうなるものなのね」

 

 

 がらりとドアがひらき、高槻さんが顔を出した。未玖はじっと覗きこんできた。

 

 

「さて、時間になりましたね。はじめましょう。まずはみなさんの書いたものについてですが、――うん、柳田くんからにしますか。この前からだいぶ進みましたね。いい感じです。ただ、気になる部分があったので言っておきます。この佐伯という人物なんですが登場の仕方がおおげさに思えてしまいます。いえ、たぶんですけど、この人物はかなり重要な役どころを担ってるんですよね? それはわかるんですが少し前面に出過ぎてるように思えます。それまでとは文章のトーンが違って感じられるんですよ。そうは思いませんか?」

 

 

 未玖はいろいろと書いては放ってきた。すべて半田先輩に関することだ。

 

 

「次は、――そうですね、すこし忙しそうですが篠田さんにしましょうか」

 

 

 そう言われると口をすぼめ、未玖は紙を丸めた。

 

 

 

 

「では、『三四郎』に移りましょう。今日は九章ですね。読みますよ。

 

『与次郎が勧めるので、三四郎はとうとう精養軒の会へ出た。その時三四郎は黒い紬の羽織を着た。この羽織は、のお光さんの御母おっかさんが織ってくれたのを、紋付に染めて、お光さんが縫い上げたものだと、母の手紙に長い説明がある。小包が届いた時、一応着て見て、面白くないから、戸棚へ入れて置いた。それを与次郎が、もったいないから是非着ろ着ろという。三四郎が着なければ、自分が持って行って着そうな勢いであったから、つい着る気になった。着て見ると悪くはないようだ』」

 

 

 うわずった声を聞いてると落ち着かなくなってきた。脚をきつく閉じ、私は胸を押さえた。

 

 

「『三四郎はこの出立で、与次郎と二人で精養軒の玄関に立っていた。与次郎の説によると、御客はこうして迎えべきものだそうだ。三四郎はそんな事とはしらなかった。第一自分が御客のつもりでいた』――ん? 落合さん、どうかしました? 顔が赤いですよ。体調が悪いんですか?」

 

 

「え? いえ、大丈夫です」

 

 

「ではつづけますが、具合が悪いようなら言ってくださいね。ええと、ここからか。

 

『こうなると、紬の羽織では何だか安っぽい受附の気がする。制服を着て来れば善かったと思った。そのうち会員が段々来る。与次郎は来る人をつらまえてきっと何とか話しをする。悉く旧知のようにあしらっている。御客が帽子と外套を給仕に渡して、広い梯子段の横を、暗い廊下の方へ折れると、三四郎に向って、今のは誰某だと教えてくれる。三四郎は御陰で知名な人の顔を大分覚えた』

 

 このまま二百十九ページの途中まで読んでください」

 

 

 声が途絶えるとやっと集中できるようになった。未玖に見られてるのはわかっていたけど私は本に顔を埋めた。

 

 

 


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《雑司ヶ谷に住む猫たちの写真集》

 

 

雑司ヶ谷近辺に住む(あるいは
住んでいた)猫たちの写真集です。

 

ただ、
写真だけ並べても面白くないかなと考え
何匹かの猫にはしゃべってもらってもいます。

 

なにも考えずにさらさらと見ていけるので
暇つぶしにどうぞ。