小説『stray sheep』先頭へ

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「では、加藤さんに訊きましょう。この言葉の違いはなにを示してると思いますか?」

 

 

「はい。美禰子の気持ちが三四郎へ傾いてるのを示そうとしてるのだと思います」

 

 

「よろしい。そういうことになるんでしょうね。僕もこの表現は美禰子の心をあらわしてるのだと思います。それに、似たような経験を二度させてるのにも意味はあるのでしょう。美禰子が気になる男を見るとき、その相手は自分を見ていないんです。求めに応じないんですね。これも当然のことに漱石の意図によるものです。運動会の件で僕はこう言いました。美禰子は自分を見てくれる人間を求めていると。今の部分には『三四郎は自分の方を見ていない』という一文が入れられてました。それとその後につづく美禰子が立ちどまるところは書かなくても状況がわかります。それを敢えて入れ込んでるのも意図してなのでしょう。このシーンを想像すると美禰子の寂しさが伝わってきますね。しかも漱石は直後に酷なことをします。野々宮くんを登場させて彼女の心を揺さぶるんです。では、そこを見ていきましょう。

 

『原口より遠くの野々宮を見た。見るや否や、二、三歩後戻りをして三四郎の傍へ来た。人に目立ぬ位に、自分の口を三四郎の耳へ近寄せた。そうして何か私語ささやいいた。三四郎には何をいったのか、少しも分らない。聞き直そうとするうちに、美禰子は二人の方へ引き返して行った。もう挨拶をしている。野々宮は三四郎に向って、

 

「妙なつれと来ましたね」といった。三四郎が何か答えようとするうちに、美禰子が、

 

「似合うでしょう」といった。野々宮さんは何ともいわなかった。くるりとうしろを向いた』

 

 美禰子が嫌いという人はこういうところが気に入らないんでしょう。まあ、僕にはかわいらしく思えますけどね。それに、こういうことってあるんじゃないでしょうか。誰かの気を引くためにする行為というのはけっこうありますよね。漱石はそれを効果的に使ってるに過ぎません。しかし、このときの美禰子の行動はそんなに単純ではないようです」

 

 

 加藤さんは顎を上向きにさせている。そのままずっと動いていないようだった。

 

 

「二人きりになってから三四郎は急に思い出します。野々宮くんに出会したとき、美禰子がなにか囁いてきたことをです。で、それを訊くんですね。その後を読みます。ええと、二百四ページです。

 

 

『三四郎はまだ変な顔をしている。曇った秋の日はもう四時を越した。部屋は薄暗くなってくる。観覧人は極めて少い。別室のうちには、ただなんにょ二人の影があるのみである。女はを離れて、三四郎の真正面に立った。

 

「野々宮さん。ね、ね」

 

「野々宮さん……」

 

「解ったでしょう」

 

 美禰子の意味は、おおなみの崩れる如く一度に三四郎の胸を浸した。

 

「野々宮さんを愚弄したのですか」

 

んで?」

 

 女の語気は全く無邪気である。三四郎は忽然として、後をいう勇気がなくなった。無言のまま二、三歩動き出した。女は縋るように付いて来た。

 

「あなたを愚弄したんじゃないのよ」

 

 三四郎はまた立ち留った。三四郎はせいの高い男である。上から美禰子をおろした。

 

「それでいです」

 

「何故悪いの?」

 

「だからいいです」

 

 女は顔を背けた。二人とも戸口の方へ歩いて来た。戸口を出る拍子に互の肩が触れた。男は急に汽車で乗り合わした女を思い出した。美禰子の肉に触れた所が、夢に疼くような心持がした』

 

 ここでの会話はなにをあらわしているのでしょう? まずは三四郎側から考えてみましょうか。彼は『野々宮さんを愚弄したのですか』と訊いてますね。これは『野々宮さんを馬鹿にしたのか』と言ってるわけです。なぜそんなふうに訊いたのでしょう? そうですね、じゃあ、川淵くん、どうしてだと思います?」

 

 

 首を引き、川淵さんは頬を引き攣らせている。口は動いているものの声は出てこなかった。

 

 

「わかりにくいですかね? では、このシーンに至る部分をまとめてみましょう。微妙な関係の三人がいる。ひとりの女性と、その女性を挟んで明確な対決姿勢になってはないにせよ緩やかにそのような関係となった男二人ってわけです。このシーンではその内の一人が問題の女性を連れてるんですね。そこにもう一人があらわれた。ところで、これって今もドラマとかにありそうなシチュエーションですよね。そう考えると、ある意味において僕たちは漱石のつくりだしたシーンからいまだ抜け出せてないわけです。いや、これは無駄話でした。――で、その女性は連れだった男に無意味な耳打ちをしてみせるんです。これはディスプレイですよ。いわゆる誇示行為です。そして、それとわかった男が『あいつを馬鹿にしたのか』と訊いてるんです。さて、川淵くん、この場合においてそういう問いをするのはどういう心情があるからでしょうか?」

 

 

「あ、あの、」

 

 

「はい、なんでしょう」

 

 

「ええと、そのですね、だからつまり自分に向けられた女性の気持ちをわかってないんじゃないでしょうか」

 

 

「なるほど。では、なぜそのように考えたんです?」

 

 

「なぜ? ――ああ、その、場違いな台詞に思えるから、かな?」

 

 

「いいでしょう。ありがとうございました。まあ、僕も似たような意見ですよ。場違いな台詞というのもその通りだと思います。それにこれは考えすぎかもしれませんが三四郎は偽善的な振る舞いをしたともとれますね。先輩にたいして求められる態度をしたように思えます。その場合、三四郎の胸を浸した『美禰子の意味』というのは無意味な囁きだったと気づいたことであって、それはつまり先輩である野々宮くんを馬鹿にしたんだと直結したのでしょう。かみ合ってないんですね、この二人は。では、次に美禰子側から考えてみましょうか。さっきまとめたことを元にすると彼女の心情はどうなるのでしょう? これは安川さんにお訊きしましょうか」

 

 


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《雑司ヶ谷に住む猫たちの写真集》

 

 

雑司ヶ谷近辺に住む(あるいは
住んでいた)猫たちの写真集です。

 

ただ、
写真だけ並べても面白くないかなと考え
何匹かの猫にはしゃべってもらってもいます。

 

なにも考えずにさらさらと見ていけるので
暇つぶしにどうぞ。