「では、読み解いていきましょう。『悪戯をしに世の中へ生れて来た男』が本格的に物語を掻き回しはじめました。しかも前に言ったメインテーマとサブテーマを同時にです。彼は競馬でお金をすったわけですが、そのお金は本来広田先生が野々宮くんへ返すべきものであり、野々宮くんからすると妹のよし子にバイオリンを買ってやろうと国許から送ってもらったものなんですね。与次郎はそれを埋めるために三四郎から借りて、それを返そうとまた美禰子に相談へ行ったのです。お金を中心として登場人物が複雑に絡みあっています。これは優れたやり方ですね。ばらけて存在してるような人物たちの関係をぎゅっと一纏めにするにはいい方法です。その上、この小事件によってメインテーマは動かざるをえません。いや、面白い展開を考えたものです。それに与次郎のキャラクターであればこういうふうになってもおかしくないでしょう? そういう妙な説得力もあるんですよ。ま、これもそうなるように漱石が計算した結果ですが」
高槻さんは微笑んでいる。それから軽くうなずき、話しはじめた。
「さらにいうと与次郎が美禰子に頼みに行ったのは別の意図があってのことだと後にわかります。それによって清々しい男だというのもわかるんですね。こういう人物を描けただけでも漱石は尊敬に値します。サブテーマに関しても原口さん登場の場面について丁寧な解説がありましたね。文芸家の会を開くがそれは自分が発起人なのだと。ほんと与次郎は便利な人物です。ひとりでストーリーを進めさせてしまうんですから。ただ、このことは次の章で述べられてますので今はメインテーマについて考えていきましょう。美禰子にお金を借りにいくにあたって三四郎がいろいろ考えるシーンがありましたね。そこを読みます。百八十九ページです。
『三四郎はこの間から美禰子を疑っている。しかし疑うばかりで一向埒が明かない。そうかといって面と向って、聞き糺すべき事件は一つもないのだから、一刀両断の解決などは思いも寄らぬ事である。もし三四郎の安心のために解決が必要なら、それはただ美禰子に接触する機会を利用して、先方の様子から、好い加減に最後の判決を自分に与えてしまうだけである。明日の会見はこの判決に欠くべからざる材料である。だから、色々に向を想像して見る。しかし、どう想像しても、自分に都合の好い光景ばかり出て来る。それでいて、実際は甚だ疑わしい』
うん、そうなんですよね。『聞き糺すべき事件は一つもない』という部分のことです。この小説にはそもそも事件が少ないんですよ。まあ、三四郎からすれば小事件の連続なんでしょうが、かといって美禰子の気持ちを問い糺すほどのことはないんです」
雨がザーッと降ってきた。高槻さんは急いで窓を閉めに行った。横森さんと亀井くんも立ち上がっている。
「いや、びっくりしましたね。急激な変化って感じでした。しかし、この物語にそれが起こるのはまだ先のことです。ここまでのところでは三四郎の周囲にあらわれる物事をただ集積するように書かれてるんです。だから登場人物同士が激しくぶつかりあうこともなければ感情が煮詰まっていくこともないんです。ぼんやりしていて、それがずっとつづいてるんですね。ただ、それでいて飽きないんですよ。それは美禰子に謎を感じさせる書き方に因るのでしょう。――ところでどうでしょうか? みなさんはこういった小説を書けそうですか? たいした事件が起こらない、ただ日常を綴るようなものであり、しかも読者を飽きさせないような小説ですよ。もしそういったものを書きたく思ったら、人間についての深い考察と研究が必要になるんでしょうね。底流として存在してるような心理描写がないと無理です」
高槻さんは顎先をつかむようにしてる。目は教室の奥へ向けられていた。
「うーん、そう言ってる僕にも書けそうにないですね。もっともっと人間の研究が必要なようです。それに経験と想像もですね。いや、反省してもしょうがないのでつづけます。この物語も後半にさしかかり変化の兆しが見えてきました。いま読んだ部分に『最後の判決』という言葉が出てましたね。それはここに至って変化が期待されることを、あるいは変化の用意があることを示してるのでしょう。主人公の独白シーンというのはそのように使われることが多いんですよ。それまでに起きたことを回想しつつ、次の一手を示すってわけです。まあ、三四郎は相変わらず彽徊してますが、美禰子についてこれだけまとまって考えるシーンというのはこれまでなかったのではないでしょうか。というところで、休憩にしましょう。十分後には戻ってきてください」
未玖はペンを口にあてている。瞳の色が乏しいのは朝に言ったことを考えてるからだろう。ただ、高槻さんが出ていくとすっと立ち上がった。私はドアが閉まるのを見ていた。そのとき誰かが近づいてきた。半分ほど痺れたようになっていた感覚を取り戻し、私はゆっくり首を曲げた。
「落合、あのさ、」
「なに?」
「いや、ちょっとお願いしたいことがあって」
「え? どんなこと?」
「篠田には言わないで欲しいんだけど、――いや、別にたいしたことじゃないんだ。だけど、その、」
私はすこし笑った。未玖が言ったのを思い出していたのだ。同い年の男の子ってほんと年下にしかみえない。
「うん、言わないから。で、なに?」
「あのさ、俺が書いてるの、もうすこし進んだら読んでもらいたいんだ。感想を聴きたいんだよ」
「ああ、」
そう言って私は深く息を吐いた。
「もちろんいいけど、私なんかでいいの?」
「落合に読んでもらいたいんだよ」
私は視線を落とした。机に乗せられた指は表面に痕を残そうとでもいうように力がこもってる。それが私にはわかった。
↓押していただけると、非常に、嬉しいです。
にほんブログ村
↓↓ 呪われた《僕》と霊などが《見える人》のコメディーホラー(?) ↓↓
《雑司ヶ谷に住む猫たちの写真集》