まことに小さい声ですが

   今さらながら

                

 高校時代―――。

 私のそれは、教科書とは関係のないところで本を読み始めた時代だ。時代

小説の味を覚えたのだ。

 その頃で言う大衆小説だ。

 たとえば忠臣蔵。それも本筋から外れた異聞が面白かった。それと同時に、

東映のチャンバラ映画だ。

 お蔭で、江戸時代の有名人の名前を結構、知ることになった。

 その頃、友人たちとの雑談で、好きな人は?尊敬する人物は誰か?と、

よく語り合った。

 他愛のない会話だったが、教師が割り込んできて大真面目に「尊敬する人は

居るのか?」と問いかけられると答えられなかった。

 

 そんな昔のことを思い出すような場面にいき当ってしまったのだ。

 相手は20代の青年。まだ学生のような空気感の漂う若者。損害保険会社の

セールスマンだ。

 用件はすぐに終り、そのあとの雑談で、ふっと彼が口にしたひと言。

「本は最近、小説しか読んだことがありません」

「ふーん。それは、どんな小説?好きな作家は?」と、こちらも軽く尋ねた。

 返答を期待しての質問ではない。ほんのお愛想。なのに、彼は黙った。

困っている様子なので、

「ま、いい。気になる人・尊敬する人って、居るのか?と思って」

と、これも軽く尋ねた。話の継ぎ穂だ。

 だのに彼は真面目に

「あの、木割さんの、思っているような人ではないので…」

と、口ごもる。そして思いきったように

「母、です」

と言ったのだ。

 今度はこちらが言葉を失くした。

 彼の眼を見ると真剣そのもの。迷いがない。

 

 その場、その時の私の、目が覚めるような瞬間を想像してほしい。

 他愛もない会話の中でのひとこと。

 初対面の老人に「尊敬する人は母親です」と言いきれるような青年が、

今でも、存在するのか、と私は感動した。

 

 そのあと彼は、その理由を淡々と語ってくれた。

 彼が中学のとき父親が亡くなり、母親は一人で彼と彼の妹を育てて

くれた。その後ろ姿を見つづけて、尊敬するようになった、と。

 言い変えると彼は、母親の後ろ姿を見て育ち、〈尊敬する人物は母親〉と、

他人に言えるような男になったのだ。

 

 彼との短い時間を過した私は、考えた。

 何しろ30年近くも私は、毎年〈母〉をテーマにした俳句大会の選者を

つとめてきたのだ。

 この“小径”でも先日、その一端を紹介した。

 母とは?と考えつづけてきた。

 俳句は短い。それ故に訴える力は強い。母への情感は共感を呼ぶ。

 とは言え、人はみな母親があり、さまざまな母子関係が生まれる。

同じ人生などありえない。

 その〈母〉を五・七・五で語る―――。

 毎年の選句はほんとうに大変。

 

 句会という場なら、選に洩れた作品について語り合うことが出来る。

だが、大会という数知れぬ作品の中から限られた数だけの作品を選びだす。

それも、見ず知らずの人の作品を。

 悩ましいのだ。

 こちらの無知による誤解やら、理解に及ばなかったことがあって、後日、

大いに悔いるコトも一度や二度ではない。

 まして、〈母〉の俳句なんて、作者の思い入れがいっぱいだ。

 そう思って、過去の大会作品を読み直したくなった。

 今年のコトはこの小径の第348回で紹介したばかりなので、それ以前の

作品を。

 手許に残している資料は、10年余り前の作品集から。それでも入選する

ことのなかった作品は3000句近い。

 反省をこめてもう一度、読ませていただいた。

 やはり、紹介したい作品が出現した。

 当時の私も採らなかったであろう作品なのに、今の私には胸にせまる

作品があった。

 

   母と来し引揚げ港雪景色    羽曳野市     猛

 

 今さら、なので作者名は下のお名前だけで失礼する。

 引揚げ港。大阪のお方なので、多分、舞鶴だろう。もう6070年前の

ことでも忘れられないことがあるのだろうか。書き残しておきたいのは、

記憶を自分の記録とするためか。

 私は長いこと、引揚げ港と言えば舞鶴と思いこんでいたが、舞鶴だけ

ではない。それを知ったのは、これもまた俳句大会。

 山口県の仙崎港。本州の最西端に近い。日本海の小さい島、青海島。

その向かい側の漁港が仙崎だ。

そこは、童謡詩人・金子みすゞの生誕の地。地元の俳人たちがみすゞ顕彰の

俳句大会を思い立ち、私は、ある奇縁から手伝うことになった。

 大会は2002年から2019年まで18回開催された。そして私は、仙崎が一番

初めの引揚げ港だと知ったのだ。

 初めての帰還者を温かく迎えた仙崎の人たちの秘話も聞くことが出来た。

 自分も子どものころに仙崎へ還ってきた、という人も、俳句大会に参加

されてきた。

 その体験談を聞きながら、俳句がつなぐ奇縁に感動したのだった。

 

   母と聴きし玉音放送耳底に   木津川市     おさむ

 

 当時、私は6才。国民学校一年生。祖父母の家で、大勢の人がラジオの

前に集まっていた風景しか覚えていません。

 この句の作者も母と聴いていたのでしょう。想像するしかないのですが、

その時の母を書き残したかったのでしょう。

 

   母の日も拉致被害者の齢かな     丹波市   千津子

   日本は母の日ですよめぐみさん    篠山市   あさみ

   母の手に拉致の子戻せと祈る春    神戸市   カツ子

 

 国家と国家が軋み合う関係で発生した事件。それを他人事とは思えない

母たちが居て、こんな句が生まれる。

 書かずにおれなかった“母”たちの気持に、今さらながら私の心も動かされている。