まことに小さい声ですが

      独断と偏見

                

 名句、として伝わっている俳句の、何所がイイのかわからない―――

という経験は、きっと誰もがしてきたコトだと思う。

「イイという理由」を、誰かに説明してもらっても、やっぱりわからない

―――という経験もある。

 そうなると、そもそも、わかるとはどういうコトなのか?と、考えこん

しまう。

 それは、俳句の世界に限らない。

 ナニがわからないのかわからない。だから質問ができないのだ。

???のままでは困るので、せめて、私は俳句の世界で考えつづけている。

 歴史的に有名な人の作品は手に負えないので、わが師匠の句について

考える。 

 

    

    花から雪へ砧うち合う境なし       赤尾兜子

    縄文人居ず深山蝉生き継ぎて

    海人の神青羊歯山頂へ照り乱れ

    霧の山中単飛の鳥となりゆくも

 

 これ等の句には〈吉野にて〉という前書がある。その発表句は、

旧漢字だった。

 さて。わが師匠の作品だが、4句目以外はさっぱりわからない。

 4句目の〈単飛の鳥〉だけは、自分のことを言っているのだろうなァ、

と心を寄せることができる。好きな一句で、ずっと愛誦してきた。

兜子の主宰誌「渦」に発表時は、上五には〈霧の山〉と書いていたように

記憶しているが、句集『歳華集』では〈霧の山中〉に推敲していた。

なにより私は〈単飛〉という造語が好きだ。

 それと、今までも書きつづけてきたが、結句が〈なりゆけり〉ではなく

〈なりゆくも〉の〈も〉が好きだ。

 この一句。私は理解し得たかどうか、断言する自信はない。だけど、

好き、なのだ。

 わからなくてイイではないか、とひらき直っている。

 

 一句目も〈砧うつ〉は、〈きぬたうつ〉と読む。俳句の世界で初めて

知った言葉だ。辞書の説明で〈あ、あれか〉と納得した。

 とはいえ〈花から雪へ砧うち合う境なし〉という一句の、意味は分から

ない。けれどこの句、のちのちも評判がいいのだ。本人も、お気に入りの

作品であった。

 でも、わからない。

 でも、何かしらカッコいい。

 音読してみるといい。〈ハナカラユキヘ キヌタウチアウ サカイナシ〉

 この句を、あの吉野で頭に描いたのだ。縄文人、海人の神、単飛の鳥。

このひろがり方は何なのだ。

 よく分からないけれど、ナニやら美しいではないか。

 そして、何故だか羨ましい。

 と、思ってしまうのだ。

 その想いが、もう何十年も頭から、胸の奥から消えない。

 この想いはもう、誰にも伝わらなくていい、と言いたくなるほど、なのだ。

 

 俳句なんて、わからなくていい。

 俳句なんて、独断と偏見の世界なのだ。

 

    ふる池やかはづとびこむ水の音       芭蕉

    草いろいろおのおの花の手柄かな

 

 元禄の、芭蕉の時代から今に至るまで俳句は、独断と偏見の世界だった

のだ、と私はひらき直っている。