まことに小さい声ですが

    ある編集者を追悼する

                 

 新聞の、小さな訃報記事の切り抜きが、私の去年のノートに貼ってある。

昭和14年8月生まれ、とあるから、全くの私と同世代。その人の名は、

斎藤慎爾。深夜叢書社代表と紹介されている。知る人ぞ知る、異色の編集者だ。

 互いに80年を越す生涯の中で、逢ったことがあるのは、たった2回。

一度目は、私が兜子門に入って間もないころ。「渦」の大阪句会の席。誰が

どう案内してきたのか、10数人の参加者の中でひっそりと座っていた。殆ん

ど発言しなかった。私には彼の声の記憶がない。けれど、何かしらの空気が

漂っていたので、先輩に「あれは誰?」と尋ねた。

「サイトウシンジ」と、先輩がささやいてくれた。

 そして「竹谷力の知り合いだ」と言い、気にするな、と眼が語っていた。

 でも、山形大学出、秋元不死男門、という「ことば」だけ、そのときの

会話で記憶に残っている。

 

 今でも不思議に思うのだが、顔も、声も全く記憶にない。竹谷力の知り合

という先輩から聞いたわずかな情報だけ、鮮明に残った。

 私にとっては、それだけが、大事だった。

 何しろ、竹谷力は結核療養所に俳句を教えにきた、私の一番最初の先生

だった。

 

 サイトウシンジが斎藤慎爾という深夜叢書の、たった一人だけの出版社の

社主?であると知ったのは、ずっと数年の後のことだった。

 

 さて。

 いまも私の手元において大事にしている本に、寺山修司句集がある。

 寺山修司の名を知ったのもいつのことだったか。昭和俳句史を知っていく

内の、いつの日、だったか。

 とにかく黒いケースの真っ赤なハードカバーの句集。

 奥付を見ると、昭和50年、発行・深夜叢書。定価一八〇〇円。当時として

は高かったと思う。

 私は寺山修司の句集が出た!と欲しくなりすぐに購入した。斎藤慎爾が

何者かも知らず、まして、その人が、若いときチラリと見たサイトウシンジ

同一人物だとは知る筈もなく。

 

 兜子のもとで「渦」の仲間が増えていく中で、新人・藤原月彦と知り合う。

 颯爽と登場した藤原月彦は「渦」で活躍を始めて間もなく、処女句集を出し

た。そのタイトルは『王権神授説』。発行所・深夜叢書社。昭和50年刊。

 私の手元には、私宛に、一句も添えてある、彼のサイン本。

 

       致死量の月光兄の蒼全裸      藤原月彦

 

 その6年の後、彼は第二句集を、同じく深夜叢書より出版する。

タイトルは『貴腐』という。

 

      敗走や父のラバウル亡兄(あに)のパリ     月彦

 

 藤原月彦は、兜子没後、やがて、藤原龍一郎として歌人に移っていく。

 俳句の読者としては残ったまま。

 

 さてさて、斎藤慎爾。

 前記した寺山修司句集のあとがきを見る。それは「手稿」と題された小文。

 書き出しは,

―――ここに収めた句は、大半が私の高校生時代のものである――― 略

―――いま、こうしてまとめてふりかえってみると、いかにも顔の赤らむ

   思いだが、「深夜叢書」斎藤慎爾のすすめを断りきれずに、公刊する

   ことになった。

とあって、伝説的に有名な

 

      目つむりいても吾を統ぶ五月の鷹     寺山修司

      ラグビーの頬傷ほてる海見ては

 

など、俳句青年が〈はしか〉にかかったように読んだ句が、1ページ2句だ

けで並んでいる。

 それを本人は―――顔を赤らむ思いだが―――と書くが、この深夜叢書の

一本には、底本があり、そのことも、この、あとがきの後半に

―――湯川書房『わが金枝篇』(句集)を底本にし、さらに未公刊のものを

   一〇〇句近く加えたのだが、読むに耐える句が何句あるかさえ、おぼ

   つかないありさまである。―――と。

 

 湯川書房―――。

 これまたわが赤尾兜子の『稚年記』の出版元で、伝説的な出版社だ。

 『わが金枝篇』は限定三〇〇部。私の手元にあるのは171番だ。

  発行昭和48年。

 

 斎藤慎爾は、湯川書房本を底本にしてでも、寺山修司の句集を出した

かったのだ。

 斎藤慎爾の不思議さは、この二十年後、平成21年、SF作家の眉村卓の

唯一の句集『雲を行く』を深夜叢書から出版するのだ。

 そのあとがきに、眉村卓は

―――純然たる内輪の私家版にするつもりでいた。しかし、句集など

    未経験で、煩雑さをためらっていたところ、畏友斎藤慎爾が、

    手伝ってやってもいいよと言ってくれたので、地獄に仏とすがる

    ことにしたのである。―――

 

      西日への帰途の彼方に妻は亡し      眉村卓

      妻の居ぬ病院秋のひと満ちて

 

 眉村卓は「渦」では私の先輩であり、SF作家として多くのファンを

もっていた。

 眉村卓も、今は居ない。

 

 

 俳句の編集者として斎藤慎爾は「アサヒグラフ」が企画した増刊号の俳句

3部作に編集スタッフの一員として参加し、原稿も寄せている。

 1985(昭和60)4月1日号「アサヒグラフ」増刊〈俳句の時代〉・昭和俳句の六十年。

 1985(昭和60)1010日号「アサヒグラフ」増刊〈俳句の世界〉・現代俳句への招待。

 1988(昭和63)720日号「アサヒグラフ」増刊 〈俳句入門〉・昭和俳句のふるさと。

 ・現代俳人読本。

 この3部作を私は資料として、くり返し手に取ってきた。今はもうかなり

傷んでいる。

 中でも、1988年版は、子規以後、昭和の終りまでの俳人系譜と、川名大と

宇多喜代子選による昭和名句二百句選は編年式になっているのでとても

興味深い。

 作品を読み継いでいると、その時代が見えてくる。

 

 編集者・斎藤慎爾を、思い出していくと私の俳句人生と少しずつ、そして

大事な場面で記憶が重なってくる。

 彼と初めて言葉を交したのは二度目に会った時。 あれはコロナ禍の前で

あったか。伊丹の柿衞文庫で何かの集まりがあった。彼が居たということは、

他に、関東からの出席者も居たということ。いつも顔なじみばかりの集まり

ではなかった。

 その打ち上げ会場で、私のすぐそばに彼が居た。

「斎藤さん、タケタニツトムを覚えていますか?」

と、私が声をかけた。え?という顔で表情が変った。

 遠いところ、ほんとに遠いところを見るような、懐かしい眼になって

「竹谷、力」

と、斎藤慎爾が言った。

 そのとき彼が何を思い出していたのか、分からない―――。

 

 「斎藤慎爾。あんな人はもう居ない。あの人だけだよな、ホンモノの

編集者は」と、ある出版人が私に言ってくれた。

 令和5328日没。斎藤慎爾は本当の伝説の人になった。

 

  

 もうひとつ、

 その伝説となった編集者としての実績、そして私ひとりの思いを書いて

おきたい。

 平成8(1996)、朝日出版社刊の『司馬遼太郎の世界』二八〇〇円。

司馬ファンなら誰もが持っているであろう、一冊。語るべき人がみんな

司馬遼太郎を語っている本だ。

 貴重な写真も、作品解説も詳細な年譜も掲載されている。その表紙を飾る

司馬遼太郎の横顔がいい。灰がこぼれ落ちそうな短くなった煙草を、顔に

近づけたまま何かを読んでいる姿。

 その表紙の肩に、保存版とあって、責任編集に、斎藤慎爾。

 そのことに気がついたときもビックリしたけれど、司馬遼太郎アルバム、

と名づけられたページの中に、大阪外語学校同窓生の集い。

そこに、よく知られた同窓生として、陳舜臣と赤尾兜子、吉田弥寿夫、

長谷川教授の写真が。

 それだけではない。わが赤尾兜子の、『歳華集』出版記念会の、

生田神社での、著名人がずらりと並んだ記念写真が、祝賀会の会場風景と

共に掲載されている。その集合写真の中央に司馬遼太郎と赤尾兜子。

 

 斎藤慎爾の編集者としての炯眼、視野の広さ、実行力。頭が下がる。

 あらためて心から冥福を祈りたい。