まことに小さい声ですが

   俳句と記憶と

                

 季語とは、単に季節の説明語ではないと思う。

 ナニナニの事ですよ、と説明されても納得できない。

 ことばには、各々、人によって全く違う思い出や、思い入れがある。同じ

ことばからAさんとBさんが同じ気分になるとは限らない。

 だから、説明語ではなく、詩のことばになる。

 季語とは詩語、だと思う。

 そう思って私は俳句を読みつづけている。

 

     竹馬やいろはにほへとちりぢりに     久保田万太郎

 

 とても有名な一句だ。

 浅草寺に句碑がある。はるか昔に私も見に行ったことがある。

 この句を初めて見たとき、何のことか分からなかった。

 でも、こどもの頃に〈いろはにほへと〉と共に文字を覚えた友だちと、

今はちりぢりにばらばらになったなぁ、ということだよ、と言われて、

そうか!と膝を打った。

 竹馬の友、とは一緒に遊んだ友。そうか、そうか、と。

 けれどけれど。

 いろはにほへと、を知らない今の若い人には、説明をしても、難しくなって

きているのだろう。

 まして、〈竹馬〉が季語とは、それこそ「ナンデ?」。

 

 そんな雑談を、親しい俳句仲間としていたら、その中の一人が

「竹馬なら、今でも乗れる」

と、80才を越した彼がこともなげに言った。

 彼は雪国育ちだった。

 

 もし歳時記をお持ちでしたら確認してほしい。歳時記も編集者によって

解説がさまざまで、本によってニュアンスが違って、面白いですよ。

竹馬の〈馬〉の意味まで納得ができます。

 因みに、〈竹馬〉は、月ごとに分けられた歳時記では一月。一般的には冬と

分類されているのも興味深い。

 

    すかんぽやあいつこいつの沙汰も絶え    宝塚   横田侃

 

 新聞俳句で見つけた。そうだなぁ、と思ってしまう。

 すかんぽが懐かしい。あの酸っぱい味が。

 それこそ遠い遠い思い出だ。だから久保田万太郎の名句を思い出したのだ。

 

 歳時記で〈すかんぽ〉をひいてみると〈酸葉〉とある。酸葉が正式な植物の

名、なのか?でも例句は、ほとんどが〈すかんぽ〉。

 遠い昔の私は、食べ物がなかったから、草でも口に入れた。

それがスカンポだったり、サトウキビだった。スイバ、なんて聞いたことが

なかった。

 

     すかんぽをくはへし顔やこちを見る      松本たかし

     すかんぽや人が通れば泣きやむ子       青木稲女

 

 歳時記に掲載されている句だ。

 すかんぽは、こどもの世界なのだ。

 すかんぽから連想される風景は、今も昔もこどもの風景。酸っぱい思い出。

 だから、私は思う。酸葉という植物学的な名前より、すかんぽ、という話  

ことばの方が、詩的な広がりがあるんだろう、と。

 

      祖母の臥す寝間の吐息や雛納め       きよし

 

 この句の作者は私の知己。おばぁちゃん子だった、と自認している男だ。

この一句は、彼の思い出の風景。そして気分は、追悼の一句だ。

 彼にだけ聞えたような気がする、祖母の寝息、吐息。その、大事にしている

思い出が、雛納め、という季語と重なってくる。思い出は今と重なる。

俳句とはそういうものなだ。