まことに小さい声ですが

   ただ一人の読者

                 

 ほんとに今まで何度もつぶやいてきた事だけれど、やっぱりもう一度、

つぶやく。俺は老人になった。

 まさか今の年令まで生きている、とは10年前でも想像しなかった。

 だから、いまも生きていることは感謝しなければならぬコトなんだろう。

 さて、誰に、どう感謝すればいいのか。

 

 生きてきてしまったンだから、愚図愚図と昔のコトを思い出して書いても

イイだろう。古い歴史の中で、隅っコの方の事だけど。

 

「天狼」という歴史的な俳誌。山口誓子の「天狼」だ。昭和30年代40年代の

「天狼」の下に居た人は今、どれほど健在だろうか。

 

 突然ながら、そんなコト思い出している。

 

「天狼」は誓子の「天狼」だが、西東三鬼があっての「天狼」でもある。

 その三鬼が亡くなったのが昭和37年。

 私は、その年に結核療養所を退院している。俳句と遭遇した療養所だ。よろ

よろと俳句の世界へ迷い始めた年だ。

 私が、赤尾兜子門下として「渦」にころがり込んだのはその10年後。

 

 兜子門となって、兜子が亡くなるまでの九年間のことは、記憶も記録もそれ

なりに残っているけれど、俳句放浪時代の十年のことは、茫洋としてハッキリ

しない。私も若かったころ、だ。

 

 その頃、私は神戸の「閃光」という今となっては幻のような俳句同人誌の

世話になっていた。そこは「天狼」同人の宮沢富士男が代表者だった。編集は

竹谷力という伝説の青年。宮沢富士男の弟子にして「天狼」のスターになりかけ

ていた人。私はその人に療養所で俳句のイロハを教わった。

 退院後、「閃光」に自分の句を投稿し、宮沢富士男の選を受けた。

けれど「閃光」には句会という場が無かった。それが残念だった。

 俳句の話を聞きたかった。

 ならば、と、竹谷力が紹介してくれた場が「天狼」の神戸句会。言われる

まま、神戸元町の、名前も場所も忘れたけれど、喫茶店の二階。

 そこには恐そうな小父さんたちが、五・六人居た。

 それが、三鬼の残党だった。

 

      緑蔭に三人の老婆わらへりき     西東三鬼

 

 この句を知ったときから私の俳句病は不治となった。

 そう思う。

 けれど、この句が私の脳中に、胸の底に、いつから重く静かに眠るように

なったか、ハッキリしない。

 そもそも、この一句の初見がいつであったか、もう分からない。

 少なくとも「天狼」神戸句会で三鬼残党の小父さんたちに教えられたので

は、ない。

 あの、小父さんたちは、そんなやさしい人ではなかった。

 木村澄夫。林薫。橋詰沙尋。

 この小父さんたちは、俳句のイロハを覚えたばかりの私を無視して、ムツカ

シイ話をしていた。無視しているけれど、小馬鹿にしているのではない。

黙って聞いておけ、という風だった。

 小父さんたちが、三鬼の晩年の俳誌「断崖」の残党であった、ということを

知ったのは、ずっと後のことだ。言い変えると、このときの小父さんたちは、

西東三鬼の最後の弟子だったのだ。

 

 三人の老婆。

 この句のことを、今も〈俳句とは?〉を考えるとき、念頭に置いている。

 三人の老婆。これがジイサンだったら俳句にならない。

 また、緑蔭だから〈俳句なのだ〉という私の思いは揺るがない。

 そして、

 

     算術の少年しのび泣けり夏         三鬼

     道化師や大いに笑ふ馬より落ち

     女立たせてゆまるや赤き早星

     露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す

     大寒や転びて諸手つく悲しさ

 

 いつしかこんな不思議な句が好きになっていた。

 誰もがそうであるように私も、前記のような作品を、正確に、ではない

しても断片的に、その魅力の虜になって居た。

 西東三鬼という人は、作品も独特だけれど、人間としても不思議な人

だったのだろう。

 

 三鬼残党の神戸句会を体験してからずーっと後。

 赤尾兜子を亡くしてまだ間もない頃、何の流れか思い出せないが、先輩の

誰かに連れられて奈良の方へ出かけた。そこで、奇妙な雰囲気の俳人を紹介

れたコトがある。

 松本万作、と名乗ったその人が、私の顔を真っすぐ見て、言った。

「そか、君は、赤尾兜子の弟子か」

 そして、ひと呼吸おいて、言ったのだ。

「そか。俺の師匠は西東三鬼だ。俺は、三鬼が死んで、たった一人の読者を

失くしたから俳句を辞めた」

 

 西東三鬼という人は、奇妙な俳句を書く人だけではなく、

弟子の俳句のただ一人の読者、それを出来る人だった。

と、その時はじめて知ったのだった。