まことに小さい声ですが

    初夢

                

 高校の同級生だった青木理のことは、この〈小径〉で、何度か語ってきた。

 その彼が、本とも言えないような手作りの手貼に

 

      初夢や父かとおもふ羊飼      をさむ

 

という不思議な一句を残していた。

 初見のときは、あまり気にとめていなかったけれど、亡くなってもう10

以上経ってから、彼のことをあれこれ思いながら読み直して、この句に立ち

止まってしまった。

 羊飼い?

 夢に見た?

 この日本であり得ない話ではないか。一体ナニが言いたいのか?

 何かの比喩だろうか?

 にしても、想像がつかない。

 初見のときは、単なるフィクション。遊びの一句、ぐらいの感じで読み飛ば

していた。でも、この手帖は、50句を自選して、豆本のようなものながら

「句集」の体をなしている。

 言い換えれば、自選句集でもある。

 その中の一句。とすれば本人にも何か強い〈思い入れ〉があったのだろう。

 青木は、高校生の頃、私に父親のことを何度か語ってくれた。

 その口ぶりで、父親を尊敬しているのを感じていた。大好きな父親だった、

筈。

 でなければ、10代の少年が、父のことを誰かに話をすることはない。

 ぼんやりした記憶の中で、青木の父は、小説の同人誌を仲間と共に発行して

いたような…。

 私には羨ましい父親自慢の話に聞こえた記憶がある。

 男性の大半は、一般的に父親よりも母親との思い出が多いと思うのだが、

いかがだろうか。

 長じて、親を想うときでも、父親よりも母親に“情”の記憶が多いと思うの

だが?

 

      いわし雲 父は人生の脇役      作者不明

 

 

 作者の名前も忘れたし、読んだのも何の本やら、雑誌であったやら、その辺り

のことは全く何も覚えていない。

 唯、この破調の表現がカッコ良かった。

 これは私が初心の時期、俳句を乱読していたころに覚えた一句だ。

 俳句でこんなコトが書ける、と感動したのだ。

 父を、他者として書くことが出来る“俳句”。

 飛躍して、“俳句”は、フィクションも書けるのか、と思った記憶の一句。

 

 青木の一句は、初夢すらフィクションだったのか。

 それとも、羊飼いが比喩なのか。

 青木は、私が紹介した「運河」で、茨木和生主宰にリアリズム俳句の薫陶

も受けていたので、奇を衒ったりはしない。

 だからこそ、もう一度。

 

      初夢や父かとおもふ羊飼     をさむ

 

 この句は興味深い。

 読み手は、この句から何を想像できるだろうか。

 私自身、いま、亡き友から読解力を試されているような気がする。