まことに小さい声ですが
おきなわの四季 へ (その1)
沖縄の俳人・玉城一香さんに初めてお逢いした日のことは今でも鮮明に記憶
している。けれど、最後に会ったのはいつのことだか分からない。疎遠になった
のではない。沖縄へ私が出かける機会が少なくなっていたのだ。
でも、その間、一香さんは俳句誌「荒妙」を欠かさず送ってくださっていた。
ご本人の体調が悪くなるまで、ずっと。
2002年の夏。
私は住所を頼りに、沖縄の友人・モリオの車で首里石峰町を行ったり来たり
して、半ばあきらめかけていた。ふと車を止めた、ある家の前。何気なく見た
表札に、その名。「あ」と声を上げてモリオと眼を合わせた。
車を降りて、呼び鈴を押そうとしたとき、人の姿が見えた。
「すみません」と声をかけた。
それが玉城一香さんとの初対面。
玉城一香(1941~2015)は俳句に一生を捧げたような人だった。沖縄への想いを
俳句で語りつくそうとした人だった。私ごときが、軽々にそういう言い方をする
のはまことに失礼だとは、思う。でも、その他に、私には伝える言葉が見つから
ない。
私とは同世代。けれど、その生涯は大違いなのだ。
1944年10月10日。沖縄史に語り継がれる那覇大空襲の戦災で故郷を焼失。その
あと最後の疎開船で九州に向かう。米軍潜水艦の追跡を避けつつ鹿児島に到着。
そして大分県の寒村に辿りついた、という。
その直後に幼い妹を亡くした。病弱で、乗船を嫌がった姿を記憶に残し、一香
さんは「妹の死という事実がその後のあらゆる思考の根底になっている」と書き
残した。
いま、何故、一香さんのことを語りたくなったのか。
それは、今年、この半年足らずの間に、私と同世代の俳句仲間を立て続けに4人、見送ってしまったからだ。
各々に師系も異なるし、生き方も違うけれど、みんな俳句に対しては真剣で、
俳句とは何か、を考えつづけた人たちだ。
私があらためて俳句とは?と考えるとき、まず思い浮かべるのが玉城一香、
その人。同世代の中で一番考えさせられた人なのだ。
槌音の音の底には暑さあり 玉城一香
1959年。首里高校2年のときの、処女作品として残している一句だ。
卒業後、思うことあって浪人生活。友人たちより遅れること3年のち、福岡
学芸大学(のちの教育大学)に入学。
1967年、野見山朱鳥の「菜殻火」に投句。以後、俳句に熱中していく中で、
1970年、朱鳥を亡くす。
たった3年の師弟関係。
けれど、一香は朱鳥への師恩を終生語りつづけた。
地蟲出ですぐ戦ひのすがたなり 一香
この句は同年秋の伊賀上野市主催の芭蕉祭俳句大会で、加藤楸邨特選に
なった一句。
「寒雷」の一香として俳句人生を送ることになった、記念の一句だ。
沖縄忌海は真青に満ち来たる 一香
何の前ぶれもなく突然訪ねてきた私たちを、一香さんは「どうぞ」と家の中へ
招き入れてくれた。
そのとき私が手にしていたのは、玉城一香著による『おきなわの四季』沖縄
俳句研究会刊の一冊。
「宇多喜代子さんに送られたものです」と言ったと思う。自分も俳人であること。
本土からやって来た者であることを、そのように名乗った、と思う。
モリオは、沖縄訛りのそのままの口調で、私の運転手役であると、名乗った。
それだけの会話。
たったそれだけの自己紹介の私たちを、玉城一香は「何用か?」と尋ねること
もなく、家の中へ招き入れてくれたのだ。
何処かへ出かけるところではなかったかな?と今でも思う。何しろ私は、呼び
鈴を鳴らさなかったのだ。その前に玄関から一香さんが姿を現したのだ。
眼が合ったので「玉城一香先生ですか?」と私が声をかけ「はい」と、その人
が答えた。
何度もいう。
ただそれだけで初対面の人間を「どうぞ」と家の中へ招くことができるだろうか。
玉城一香さんとお逢いしたそのときより、半年も前。
場所も思い出せない、或る日のことだ。姉貴分の俳人・宇多喜代子さんと雑談
していた。
ふと
「あのね」と言って私に差し出したのが『おきなわの四季』だった。こんな本が
送られてきた。沖縄のことだから私が持っているより君が持っている方がイイ
だろう、と。
そのころ、すでに私は沖縄を何度も訪ねていた。誰彼なく、沖縄のことを話題
にしていた頃だった。
『おきなわの四季』は私の教科書になった。
それは歳時記であり、一香さんの俳句への想いを書きつづられたものだった。
私はまず〈うりずん〉という言葉の解説を、この本に求めた記憶がある。
沖縄を訪ねる度に耳にしていた〈うりずん〉。
今でもうまく説明はできない。
4月ごろの空気感らしいのだが、それを体感できて言葉に出せるのは、沖縄で
生活した者にしか出来ない。そんな気がする。
私は、玉城一香さんに、お聞きしたいことがいっぱいあった。俳人として教え
てほしいこと。学び始めた琉球・沖縄の歴史のあれこれ―――。
一香さんに、ご自宅の2階へ案内された。
その階段には、文字通り摺り上がったばかり、紙包装のままの書物が積んで
あった。
それが沖縄俳句研究会編の『沖縄俳句歳時記』だった。