まことに小さい声ですが

    悦っちゃん先生

                

〈主題花〉しゅだいばな、という辞書にはない言葉。

 与えられたテーマから自由に発想して「花を活ける」。そのテーマは主に

短歌・俳句という短詩形。

 ある奇縁から私は、そのお花の教室の講師を引き継いでいる。

引き継いだいきさつは、また別のときに語ろうと思う。

 

 さて、ごく最近。〈主題〉として提出した次の俳句を読んでみて下さい。

 

    句集『百囀』(ひゃくてん)より八句

       

      水無月の黒楽に白湯いただきぬ

      涼しくて本音洩らしてしまひけり

      金継の涼しき薄茶茶碗かな

      先生の通夜の大きな夏の月

      夏の炉の灰芳しく掻かれあり

      形代に母の名書きしことのなし

      武具飾る山の湯宿に着きにけり

   

 大好きな俳人・大石悦子さんの作品だ。

 昭和13年、舞鶴に生まれる。即ち、私と同年生まれ。

 平成30年、桂信子賞受賞。

 令和3年、小野市詩歌文学賞・蛇笏賞受賞。

 当代で、人気・実力ともにナンバーワン、と私たちが言いつづけてきた人だ。

 前記8句を読んでも分かって頂けるだろう。

 静かに語りかけながら、シンとして考えさせられる。滋味深い作品ばかりだ。

 黒楽(くろらく)とか金継(きんつぎ)とか。また、夏の炉とか。私も時々お茶席

を見学させて貰う機会があるから、少しは寄り添うことが出来る。

 中でも〈先生の通夜〉の句が一番身に沁みる。

 読む人によってさまざま思い当たることがあるのではないか。

 俳句の答えは一つではない。

 そのことを考えさせられる。

 どの句も、ムツカシイ言い回しはしていない。

 上手く書こうという技術を感じさせない。

 だのに、読み手のそれぞれの世界にしみこんでくる。

 味わい深い句、とはこういう作品を言うのではないか、と思う。

 好きなのだ私、悦っちゃん先生の句が。

 

 同年生れ、ということもあって、大石悦っちゃんと呼び、仲間うちでもそう

語り合ってきた。

 いつからそうなったのだろうか、と考えたとき、思い当たることがあった。

あれは平成5年6年ごろ、であったか。当時、宇多喜代子・山本洋子・大石悦子

・西村和子を「女流俳人四天王」と呼んだ時代があった。

 この4人。吟行グループと自称して関西のあちらこちらを吟行して歩いていた、

らしい。らしいとは、誘われるまで私は知らなかったのだ。

 或る日、突然、姉貴分の宇多さんに「何処かを案内せよ」と言われ、手伝った

ことがあった。

 実は吟行のあと、自宅に帰ってから一両日の間に、各自100句を出し合う、

という会でもあったのだ。

そんなコワイ集まりの案内役を2回つとめた。

 丹波篠山と、大阪臨海地区歩き。

 そこでは、後に語り草となる話もいろいろ生れたのだが、それはさておき。

私の、悦っちゃんと西村和子さんとの縁はその吟行会より始まった。

 西村さんはその後、関東へ帰られたが、あとのメンバーとは茨木和生を加え

て、いろいろご一緒する機会が増えていったのだった。

 

     後見の声のつつぬけ夏点前        大石悦子

     まくなぎを打ちて野点の席におり

     待ち合はす春の噴水コンコース

     朝潮橋夕凪橋に春逝くよ

 

 前の二句は丹波茶どころ。後の二句は大阪風景。

 私の手許には、そのときの宇多喜代子による楽しい吟行記コピーが残って

いる。何度もくり返しくり返し読んだものだ。

 

 私のこの小径300回目には、その頃の楽しい思い出を書こうと思っていたの

だけれど―――。

 4月28日、大石悦子85才で逝去の報。

 淋しくてもう、これ以上は書けない。

 

   先生の名を言うてみよ葱坊主  悦子

 

 どこかで誰かの何か無礼に、ぐっとこらえて心につぶやいたであろう、

この一句。

「この句、大事にしてるよ」

と、これまた何度もご本人に申し上げた。

 悦っちゃん、淋しいよ。

 宇多さんも言いつづけています。

 あのときの、2回の吟行の思い出は私の宝ですからね。