まことに小さい声ですが

   音楽漂う

                 

〈戦後〉という言葉が気になっています。

 ふり返ってみると、はるか昔の、私の青春時代。

 私たちは〈戦後育ち〉と呼ばれ、私自身も自らを〈戦後派一期生〉を名乗っていた。

 終戦の年が国民学校一年生。新しい教科書も無かった。ガリ版刷りのプリントの

記憶。

 軍隊経験者が私たちの前で〈先生〉として教壇に立った。そういう時代。

 中学・高校と少しづつ見えてくるものがあった。

 戦後一期生は、拗ね者に育っていった。

 と、思う。

 そして今。〈戦前〉という言葉がボンヤリ浮かんでくる。だからもう一度、

〈戦後とは〉が気になる。

 

     てんと虫一兵われの死なざりし     安住敦

 

 俳人なら誰しも目にしたことのあるであろう、この一句。

 昭和20年作。

 この年、どんな俳句が生れたのか、と考える。

 

     玉音を理解せし者前へ出よ     渡邊白泉

     新しき猿又ほしや百日紅  

 

 戦後とはこの年の815日から始まったのだから。

 

『昭和俳句作品年表』という資料価値の高い労作の本が、二冊ある。すなわち

〈戦前・戦中篇〉と〈戦後篇〉。

 俳句史の中で戦後派俳人と呼ばれ、昭和後期には巨星と呼ばれるような先達の

作品や、さまざまな問題作を見ることができる。

 渡辺白泉は〈戦争が廊下の奥に立つてゐた〉という作品を昭和14年に書いた人。

 その白泉の昭和31年の作品には

 

     手錠せし夏あり人の腕時計       渡邊白泉

     地平より原爆に照らされたき日

 

 戦後派一期生の私は、戦中の俳人たちが戦後に残していてくれた作品を、くり

返しくり返し読んでいきたい。

 

私の青春時代、音楽や絵画の世界で前衛運動が盛んだった。何もかもが新しく、

躍動していた。私は音楽の世界にはウトかったが、絵画の世界へは友人に誘われ

て見に行った。〈具体美術協会〉という。

 いま確認してみると、〈具体〉は昭和29年に発足していた。後年、親しくさ

せてもらった尼崎市の白髪一雄・西宮市の嶋本昭三。キャンバスに向かって瓶に

容れた絵の具を投げつけたり、キャンバスの絵の具を足で描いたり。それは今ま

で見たことのない、とんでもない世界だった。

 関西で誕生した前衛美術が世界へと、脚光を浴びていくのを、遠くから憧れていた。

 具体美術の創立者・吉原治良はリーダーとして仲間たちに、とにかく誰もやら

なかったコトをやれ、と言ったという。その結果が、世界中の美術界を驚かせた

のだ。

 私が前衛俳句の世界に惹かれていくのは、それから10年以上後のことだ。

 そう、私にとって戦後という言葉は〈前衛〉という世界を意識させるモノ

だった。

 だけどその〈前衛〉という言葉が〈軍隊用語〉の〈前衛部隊〉から生まれたら

しい、と知ったのは、これまたずっと後のこと。

 ともあれ〈前衛〉は前へ前へと新しいモノを求めて突き進んでいくものだと、

今も思う。いかなるジャンルでも新しいモノを求めて前へ。

 問題は、その〈新しい〉モノとは何か、だろう。

 SF小説の想像世界や、推理小説のトリックは、作家の一人一人が誰も手にし

ないものを作り出すために、先人先達の作品をくまなく読む努力をしたという。

 

 されど、わが俳句界は。

〈前衛俳句〉という言葉すら忘れられている。

 そんな気がする。

 そして、応募作には盗作騒ぎが後を絶たない。

 何しろ、たった十七音の詩。よく似た作品が生まれる可能性が高いのだ。

 そういう意味では前衛俳句が懐かしい。前衛が懐かしいとは、矛盾に満ちた

言葉だけれど。

 

 何度も言うが、音楽にはウトい私でも先日の坂本龍一の訃報には心が揺れた。

「戦場のメリークリスマス」。大島渚監督の映画にも考えさせられたが、あの

旋律が耳に残る。タイトルを聞くだけで、音が聴こえてくるような気がする。

 テレビ、新聞で、音楽家・坂本龍一の敬意ある追悼報道を耳にし目で見て、

何故だか私は我が師匠の一句を思い出していた。あの抽象絵画のような前衛の

一句を。

 

      音楽漂う岸侵しゆく蛇の飢     赤尾兜子