まことに小さい声ですが
草城平野
木割 大雄
或るモノ・コトに対して嫌いな理由は、あれこれと言うことができるけれど、好きになる理由は、うまく言えない。好きな理由なんて、論理的には言えない。と、思う。
―――という言い訳をしながら、好きな一句を紹介する。
大阪やラムネ立ち飲む橋の上 伊丹三樹彦
謦咳に触れることが出来、親しくさせていただいていたので、伊丹先生と呼びたい。私と同じ、尼崎市の住人であった、ということも含めて。
大正9年生まれの伊丹先生に向かって、親しさに甘えて失礼なことを言って、気分を害させることもあった。その伊丹三樹彦(1920~2019)の一句、と言えば、前記の句が好き。
調べてみたら、昭和27年の作、だった。
あの独特の形の瓶に炭酸水が入っていて、ガラス玉で詮がしてある。もっとも近頃、大阪の夏はとんでもなく蒸し暑いけれど、昭和27年の伊丹先生は、川風を感じながらラムネを飲んだのだろうか。
伊丹先生がエラクなってからの、「分かち書き」は好きになれなかったけれど、
草城の死の以後は孤児 山茶花見る 三樹彦
という一句、その姿勢が好きだ。
弟子貧しければ草城病みにけり 三樹彦
黍嵐病草城へペダル漕ぐ
人が何と言おうが亡くなる寸前まで多作をつづけられた伊丹三樹彦、という人。
不思議な俳人だった。
その人の師匠が日野草城。
関西には、山口誓子と日野草城という巨星が二人居られた。
「天狼」と「青玄」という俳誌のもとに多くの仲間弟子を擁していた。それを私たちは
「誓子山脈」「草城平野」と聞かされていた。
これは誰が言いだしたのだろうか。
誓子の側には、三鬼をはじめとして、鈴木六林男、佐藤鬼房、秋元不死男、平畑静塔、それに、橋本多佳子等々のサムライが並び立っていた。俳句史上に大きく名を残した先達が。
それに対して草城には、桂信子と伊丹三樹彦のほかに、失礼ながらすぐに名前が出てこない。
だがしかし、各地にさまざまな人が居た。
わが街、尼崎市の変骨俳人・小寺勇もその一人。
草城忌おろか門弟長生きして 小寺勇
小寺勇さん(1915~1994)のことはこの小径でも何度か紹介したけれど、〈草城秘話〉もいろいろ聞くことが出来た。
そして草城門では、なんといっても桂信子先生。
われによき師ありて北風をいそぐなり 桂信子
先生が語る日野草城は、いつもキラキラと光り輝いていた。
けれど、
一月二十九日草城先生逝去さる
風花や亡き師の言葉片片と 桂信子
と、これは昭和31年のことだった。
わが師・赤尾兜子も草城に憧れ、一度だけその病床に見舞いに行った。
「先生」と声に出して呼ぶ人を持たなかった兜子にとって、草城は心の中での「先生」であったのかも知れない、と私は勝手に思っている。
草城平野の端っこでもいいではないか。