「チェギョンのハンカチって、どうして注射器の刺繍がしてあるわけ?最近、そのハンカチ、よく持ってるわね」

「これ?…内緒」
チェギョンが笑うと、ジュディがきらりと目を光らせた。
「ふぅーん。きっとシンと関係があるのね」
ピアノ仲間のジュディの視線の先に、チェギョンの夫のハンカチがある。彼女はシンが使っていたハンカチを数枚自分用にしているのだ。

「ま、いいわ。どうしてシンのハンカチを持っているのか知らないけど…でもその顔を見たら、なんとなく理由が分かるけど」
ジュディが笑い出した。

「それにしても…本当に幸せそうね」
ジュディが目を細めてチェギョンを見た。
「うん」
真っ赤になりながらも、素直に言い切るチェギョンにジュディは微笑んだ。
「羨ましいわ。そんなふうに想える相手に巡り合えて。チェギョンはラッキーね」
「ジュディだってきっと素敵な人が現れるわ」
チェギョンが真剣な顔で言い返した。
「ありがとう。その言葉『希望的観測』として受け止めておく」
ジュディの方は軽く聞き流していた。チェギョンのこの言葉をジュディは後々思い出して、
「チェギョンの予想があることもあるのね」
頬を染めて独りごちることになるとは、この時の二人は露とも知らなかった。(→そのエピソードはここから飛べます。『メロディが聞こえたら』)



*****



「シンくぅぅん、何読んでるの?」
シンのような大柄な男性が3人ほど座れる大きなソファに横たわり、彼は本を読んでいた。彼の妻がちょこんとソファの空いたスペースに座ると、本の横から可愛い顔を覗かせる。

今日のチェギョンはサイドの髪を緩く後頭部で留めている。シンの好きなヘアスタイルだ。こうすると彼女のほっそりとした首筋が際立ち、貝殻のような可愛い耳たぶが露わになる。
控えめなオフショルダーの黒いワンピースは、妻の白い肌に似合う。鎖骨も窪みに並々と水がたまりそうになっている。
シンは読んでいた本を畳むと、手を伸ばしてサイドテーブルに載せ
「おいで」
妻を引き寄せた。彼の言葉に素直に従った彼女は、羽のように軽い体を彼の逞しい体にのせた。


「今日はなんだか疲れちゃったな」
チェギョンがため息まじりに零した。
「どうして?」
妻の髪を弄びながらシンは聞いた。
「分かんない。ジュディとショッピングしただけなんだけど…靴かな?」
そう言われて彼が僅かに頭を上げてチェギョンの足元を見ると、黒いエナメルのフラットシューズだった。
「その靴が?」
「うん。これね、靴底が堅いの。だから外を歩いていると、足が疲れてくるのね、きっと」
「それじゃ、どうしてそれにしたんだ?」
「だって、エナメルの黒い靴はこれしか持ってないもん」
シンは長い腕を伸ばして、妻の靴を脱がすと小さな足の指をマッサージし始めた。そのままふくろはぎまで手を動かしていくと、
「…うぅぅんっ」
チェギョンは目を閉じて、ウットリとしている。
「明日、新しい靴を買いに行こう」
チェギョンの耳たぶを甘噛みしながら囁いた。
「とりあえず、ホカホカの風呂に入って僕がマッサージしてあげよう」
きらりと目を妖しく光らせると、彼女が何か言う前に抱き上げ、まっすぐバスルームに向かった。



****



妻は“本当に”疲れていたようだ。“楽しく充実したバスタイム”の後、ベッドに運ぶとすぐに可愛らしい寝息を立てて眠ってしまった。ベッドでゆっくりと続きを楽しもうと考えていたシンの目論見は、叶わぬままだ。

自分の胸に背をあずけスヤスヤと眠るチェギョンの無垢な顔を見つめる。
まるで雛のようだ。

「眠たいの」
バスルームでそう言ったチェギョンは、瞼がくっつきそうな顔で彼を見ていた。
「黄色のパジャマが着たい」
と言った彼女の願いを聞き入れ―――すぐに脱がす予定だったが―――シンは半分眠っているような彼女に着せてやった。
ベッドに運ぶ途中で眠ってしまったような気がしていたが、それは気のせいではなかった。ふかふかした枕に小さな頭を乗せてやると、あっという間に規則正しい寝息が聞こえてきたから。

上質なコットン―――レイフォードの新商品―――でつくられたこの少女チックなパジャマは妻によく似合う。慎み深くノーマルな小さな襟ぐりと、小さなパフスリーブ。袖もシャーリングになっていて、
「おとぎの国のプリンセスみたいっ」
チェギョンは大喜びしている。胸のすぐ下で切り替えされ、ふんわりと膝丈まで広がり、裾はフリルが付いていて、まさしく『子どものプリンセス』の風情だ。

こんな子どもじみたデザインなのに、チェギョンが着ると不思議としっくりとしていて、ティナ・レイフォードが感心していた。(←ティナのエピソードはここから飛べます)
「これだけは、クララよりチェギョンのほうがモデルにピッタリね。お願い!このシリーズだけ、チェギョンをモデルに使わせて」
そう頼まれたことを思い出した。(←クララのエピソードはこちらから飛べます。)
最初は断ったシンだったが、余りにも熱心に頼まれて
「チェギョンが『うん』と言ったら」
と言う条件でしぶしぶ許したのだ。妻のほうは、モデルの仕事を辞めたばかりだったから、戸惑っていたようだが―――シンの顔をチラチラ見ていた―――ティナとリズに頼まれて「うん」としか答えられない状況に陥っていた。


ティナ・レイフォードの思惑通り、このパジャマのシリーズはすぐに完売してしまったようだ。



++++


「まぁっ。シン知ってた?」
リズが大袈裟なアクションを起こすときは、大抵自分に取って“好ましからざる情報”が降ってくると分かっているシンは、知らぬ顔をした。
「やぁね、男の人ってっ!!」
リズのその言葉にシンの眉がピクリと上がる。そんな彼に忍び笑いを堪えたリズが
「『チェギョン・ジェラードの寝姿の妄想をかきたてられる』ですって!」

と大きな声でメディアの記事を読みだした。
 
ギリリとシンが奥歯を噛みしめていると

「コメントも同じような感じね。みんな『少女チックな姿が、余計にそそる』って書いてあるわ」
これまた大きな声で読みだす。

「…完売したんだ。このモデルのチェギョンの画像は削除してもらってもいいだろうね」
ティナに向かって怒りを抑えた声でシンが言うと、
「あら、ダメよ。だって追加で生産してるから」
澄ました顔で返されてしまった。
シンは苛々とした長いため息を吐き、
「ま、今回だけだからな。―――もう少しの辛抱だ」
誰に言うともなく呟いた。

「今回だけじゃないわよ。だって、契約書には『ナイトドレスの類』って書いてあるから」
「なんだとっ」
ティナが姉のリズそっくりの澄まし顔で、紅茶を飲んでいる。
「チェギョンは知ってたのか?」
隣に座る妻に向かって尋ねると、
「え?…し、知らなかったかも…」
言葉を濁している。彼は目を細めて妻を見た。チェギョンは肩をすぼめて小さくなっているような気がした。

「チェギョン、本当のことを言いなさい」
「…だ、だって。ティナが…」
チラリとティナの方を見ると、チェギョンはまた下を向いてしまった。
「ティナが何と言ったんだ?」
「…ナイトドレスのラインは、そんなに頻度も商品も多くないからって。…お願いされちゃったんだもん」

あのティナ・レイフォードがこんなにヒットした商品を、放っておくわけがない。

「そ、それに…契約は1年間って言ったし」
1年間に季節ごとに新商品を出す気に決まっている。

「契約書は契約書よ。悪く思わないで、シン」
ティナの勝利の宣言にも等しい言葉に、シンは奥歯を噛みしめることしかできなかった。



++++


モデルの件は気にくわないが、確かに妻にこのパジャマは似合っている。

と、チェギョンが寝返りを打ち、シンの脚の間に小さな足を滑り込ませてきた。
柔らかな足が足首をかすめる。そして、甘えるように彼の顎の下に顔を寄せてきた。

シンは唸った。
ただでさえお預けを食らった気分だと言うのに、妻の一連の好ましい仕草で欲望に火が付きそうだ。


「…シン君…」
「チェギョン、起きてるのか?」
彼が小さく囁いたけれど、バンビのような大きな目はまだ閉じられたままだ。
「寝言か」
彼は苦笑した。

「シン君…大、すき…」

チェギョンの可愛らしい告白に、目を見張った後、彼は蕩けそうに微笑み妻を抱き寄せた。
その額に唇寄せ、
「僕もだよ」
彼の眠り姫にそっと愛の告白を送った。