★このお話の主人公は、シンとチェギョンではありません。

シンの義姉リズ・ワトソン・ジェラードには、妹が一人います。その妹ティナが、ヒロインの話ですが、妖精シリーズに何度も出てくる脇キャラなので、彼女のロマンスもここで更新します。

 

妖精シリーズがお好きな読者の方ならば、スピンオフ版もお楽しみいただけるかと思います。

 

 

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その時は、突然だった。なんの前触れもなく、やってきた。

でも、この瞬間を待っていたのかもしれない。結ばれるべき二人を、天が再び引き寄せたのだろか。

ダン・レイフォードは、その肩にのしかかる多くの責任と責務のために、ティナ・ワトソンに別れを告げた。
ティナ・ワトソンは、恋人の責任と責務の大きさを知っていた。そして、ダン・レイフォードに別れを告げた。


*****


花嫁姿の姉は、信じられないぐらい輝いていた。花婿のアレックス・ジェラードは、ティナが知っているこの世の男性の誰よりも、姉のリズを愛していた。
だから、ティナは幸せだった。例え、自分が姉のような『幸せな花嫁』になる可能性は限りなくゼロに近いと分かっていても。
二人がこの上なく幸せそうだったから、きっと、自分に与えられるはずだった幸せを天は姉に与えたのだろうと。

「ティナ。やっぱりあなたは、ピンクが似合うわ」
オレンジのブーケを持った姉が、妹の姿を上から下までざっと視線を走らせながら、満足そうに言った。ティナは姉の言葉に曖昧な笑顔を見せると、
「ありがとう」
リズの頬にキスをして、
「リズの白には負けるわ」
少し、話を逸らした。そんな妹に気づかずに、姉は嬉しそうに口の端を上げ、夫になるアレックスの腕に頭を預けている。
いつもは他人の仕草や表情に敏感なリズも、今日ばかりは幸せ過ぎてその勘が鈍っているのかもしれない。
――――鈍ってて良かった。
ティナは内心ほっとした。大好きな姉の結婚を最後の1%で祝福できない自分を、リズに知られたくない。
ただ、自分は決して姉のような笑みを浮かべることはできないのだと思うと、胸の奥に絶望感と鉛のように重たい物思いが広がるのだ。

普段は物に動じず、冷静な顔ばかりを見せるアレックスも、今日はどことなく微笑みを湛え、とっつきにくさが和らいでいる。
姉と二人だけの時は、きっと、こんな顔を見せているのだろうと、ティナはぼんやりと感じた。そしてこのアレックスにそんな顔をさせる姉を、心から尊敬した。自分には到底無理なことだとわかっているから。
アレックス・ジェラードのような完璧な男性の前では、自分は委縮してしまいそうだ。

「シン!こっちよ」
姉がアレックスの弟を呼んだ。リズはこのハンサムな義弟のことを、とても可愛がっていた。表向きは言い争ってばかりの二人だが。
姉に呼ばれたシンが――――こちらは普段よりきりりとした表情で―――近づいてきた。

「シン、素敵ね」
リズが惚れ惚れとした声をあげた。
「いつもこんな風に紳士なら、私も心配しなくて済むわ」
首を振りながら、リズが言うと
「これはこれは、麗しの姉上」
おどけたようにリズの手の甲にキスをして、
「僕も、リズがいつもこんなにおしとやかでいてくれたらと思うよ」
アレックスとティナに微笑んだ。
一瞬、ムッとしたリズだったが、素早く気持ちを切り替えたらしく、花嫁らしい笑顔を見せ――― 多少、頬がひきつっていたかもしれないが
「シン、ティナをよろしくね」
滅多に『姉』らしいふるまいをしないリズが、『姉』らしい口ぶりでシンに頼んだ。

「別にシンに頼まなくても、大丈夫よ」
ティナはごく自然な口ぶりになるように注意しながら、言った。

姉は、最近、シンと自分を何かと二人きりにさせたがるような気がする。なるほど、シンは素晴らしい男性だ。背も高くスタイルもよくセンスもいい。さらに、アレックスと双子と見間違うほど似ている。そう、端的に言えば、たいそうハンサムなのだ。
そしてなにより、彼の両親は、『ティナ・ワトソン』を否定しない。


シンが礼儀正しく、ティナの肩を抱いてエスコートしようとした時、ティナは感じた。
痛いぐらい鋭い視線を。
振り返ってはいけないと、心がサイレンを鳴らしたのに、振り返らずにはいられない何かを。
――― 視線の先にあるものを見つめたら、再び、天国のような幸せと共に、地獄のような苦しみを味わうと分かっていたのに。
どうして、自分は視線を向けてくる“その人物”に振り返ってしまったのだろう 。

 

 

 

 

友人のアレックス・ジェラードが結婚するという。相手のファミリーネームを聞いた時、ダンは忘れようとして忘れることができず、忘れた振りをしている自分に気づいた。
きっと、この口からその名を呼ぶことは、二度とない。ティナ・ワトソンと同じファミリーネームだったから。

父が病に倒れた時、ダンの肩には会社の従業員とその家族の人生が重くのしかかってきた。事業のパートナーとして、相手先の娘と婚姻を結ぶ―――差し迫って彼ができることは、そのことだった。
それを無視して、恋人を選ぶほど、子供ではなかった。そして、恋人を忘れることができるほど、大人でもなかった。

忘れることが出来たのなら、自分はどれほど幸せだっただろう。
ダンは毎晩夜空を見上げて物思いにふけった。
「ティナ…」
どこでどう自分の人生は狂ってしまったのだろう。ただ愛しい人と幸せになりたいという、ごく普通の夢を抱いていただけだと言うのに。

妻となった女性には、何年も続く恋人がいた。ダンの妻となってもその関係は何ら変わらなかった。
夫もまた、妻のそういった行動を咎めなかった。咎めるほど妻に興味を持っていなかったからだ。
二人が同じベッドで休んだのは、法的に夫婦になった夜だけだった。そして大きなベッドの端と端に寝ころび、決してお互いに触れないまま朝を迎えた。
それ以降、同じ部屋で休んだことさえない。大切なのは世間体だけだった。


そうやって、何年も過ごしてきた。
あの時、涙を決してこぼさないように耐え、唇に微笑みさえ浮かべた愛しい恋人の瞳が瞼を閉じると浮かんでくる。だから、眠ることを避け、仕事に没頭した。
――― ようやく、忘れることはできないけれども、眠ることはできるようになった。

それなのに。

アレックスの結婚式で見つけてしまった――― 『僕のピンクの綿菓子』を。

ティナはピンクが似合う女性だった。見ているだけで誰もが笑顔になってしまうほど、魅力的な微笑みと、柔らかそうな曲線を描く身体。緩やかな巻き毛に、ピンク色の頬。小さくふっくらとした可愛らしい唇。
何もかもが、自分の理想だった。
『ピンクの綿菓子』と彼女を呼んだ。彼女の耳元で囁くと、照れながら口をとがらし、「子ども扱いしないで」と決まって言うティナが愛おしかった。


自分がもっと子どもだったら、よかったのだろうか?
それとも、もっと大人だったら、よかったのだろうか?

あの時、自分たち二人にあった選択肢は、そう多くなかった。どれを選んでも、苦しいのは分かっていた。結局一番無難な道を選んだつもりだったけれども、それは自分を殺してしまうほどのものだったと、今ならわかる。
だが、だからと言って今更どうすればいいのだ?

そうやって、全てを忘れる振りをして、あれから生きてきた。

多くの招待客がいるこの空間で、ティナを見つけた途端、自分と彼女だけしかいなくなった。

彼女の肩を抱く男性は誰だ?
彼女に触れることが出きるのは、このダン・レイフォードだけのはずだ。

―――気が付いたら、ティナの手を握りしめていた。





振り返った先に、ダンがいた。

彼の父親が倒れ、その時まで見ないようにしていた現実が、突然二人の前に現れた。テキスタイルの会社を代々家業とするレイフォード家は、名家だった。そして、代々の考えを頑なに保持していた。
そして配偶者にも同じ階級を望んだのだ。

知り合ってから、すぐにその問題に直面し、それでも二人は問題を先送りにしてきた。離れることができないほど惹かれあい、そして、彼の父は元気だった。
危ういバランスのもとで育まれていた恋人たちの愛は、ある日脆く崩れ去った。

自分を選んでほしいと言えるほど、子供ではなかった。
そして、彼を忘れることができるほど、大人でもなかった。

あの日、別れを告げた日、自分の手を握ろうと震える腕を伸ばし、結局、握ることをやめたダンの姿が忘れられない。二度と二人の人生は重なることはないのだと、そう感じた一瞬。


彼は自分を『僕のピンクの綿菓子』と呼んだ。

彼にそう呼ばれるとこそばゆい気持ちになった。
名家の跡取りらしく澄ました顔。笑うと思いがけなくチャーミングな目元。低く、太い声。硬そうな髪。仕立ての良い服を背筋を伸ばして気負いなく着るセンス。
―――-抱きしめてくれる力強い腕。
今でも思い出すことができる。
――― 違う。忘れることなんて、出来ない。二度と。決して。



ダンと目があった瞬間、この空間に、自分とダンだけしかいなくなった。

気が付いたら、ダンが自分の手を握りしめていた。