「リズっ、チェギョンはそっちにいるか?」

リズ・ワトソン・ジェラードは、優雅なアフタヌーンティーの最中だった。それも友人のパトリック・ハミルトンのホテルで。
今まさにイチゴのプチケーキを口に運ぼうとした瞬間、義弟のシン・ジェラードがひどく慌てて電話をかけてきたのだ。

「私はパトリックのホテルにいるのよ。ティナとね。チェギョンはいないわ。またケンカでもしたの?」
「いないならいいんだ」
ブッという音が聞こえそうなほど唐突に、シンは電話を切った。
「もうっ、何なのよっ」
「シンから?チェギョンがどうしたの?」
妹のティナ・ワトソン・レイフォードが楽しそうに尋ねてきた。リズはちっとも楽しくないというのに。
「知らないわよ。チェギョンの居場所が分からないみたいね。どうせいつものケンカよ」
「あの二人ってケンカなんてする?」
ティナがティーカップの縁からリズを見て言った。
「ケンカって言うよりも、ボタンの掛け違いって言うか、ま、そういうことね」
リズの言葉に、ティナが頷く。
「そうね、チェギョンは妖精だから」
リズはティナの言葉に大きく首を振って肯定した。
シンの妻チェギョンは人形のような美女だけれども、見た目の妖精さは中身のそれにかなわない。およそ、現代の20代の女性とは思えないほど浮世離れした感覚で生きている。

ゆえに、思わぬことであの二人はトラブルになると、とリズは思っている。
そして毎回、そのトラブルに巻きまれるのが自分と夫のアレックスだ。

今回はどうだろうか―――と、リズが思っていた正にその時。

「あら?あれ、チェギョンだわ」
ティールームのガラス張りの向こうに、トボトボと肩を落として歩くチェギョン・リンジー・ジェラードの姿があった。



*****




チェギョンは憂鬱だった。実際数日間から不快な歯痛に悩まされていた。
夫のシンに何度も言おうとしたけれど、彼は忙しそうで、朝顔を合わせると、夜遅く帰宅する日々。一緒に夕食を取れる日でも、そそくさと食事を腹におさめ、彼は書斎へ籠ってしまう。

チェギョンが元気がないことをシンは彼自身の仕事のせいだと考えているようで、申し訳なさそうな顔で彼女を見るのだ。

昨晩も書斎へ籠った彼のもとへチェギョンは向かった。
書斎のドアをノックすると、夫はいつものようにデスクから身をよじってチェギョンを見てくれた。
「どうした?ああ、寂しい思いをさせてるね。ここへおいで」
そう言って腕を広げてくれた。

寂しいのは事実だ。だからチェギョンは小走りに部屋を横切ると、彼の広い胸の中へポスンと飛び込んだ。そしてその瞬間、歯が痛いことを忘れてしまったのだ。



「夕べ、シン君に言えばよかった…」
今朝になって、親知らずがじくじくと痛み出した。この不愉快さは経験済み。
以前もこうして親知らずが痛くなり、歯科で抜いてもらったのだった。

あの時は大変だった。
腫れが完全に引くまで1週間近くかかり、体力のないチェギョンはげっそりと痩せてしまった。

あの忌々しい経験を思い出すたびに、どうにかこうにか歯痛が消えてくれないだろうか?とうつうつと考えていたため、シンに言いそびれていたこともある。

けれども、この痛みはとうとう歯科クリニックへ受診しなければならないサイン。

夫の知人のDr.ミナ・クリスティーナ・キムに診察してもらわなければならないだろう。
クリスティーナはシン曰く「親知らずの痛みを最小限に抑えて治療できる歯科医」だという。彼女に診察してもらわなかったら、痛みに弱い自分は倒れてしまうに決まっている。
彼女に抜いてもらった時でさえ、あんなに痛かったのに。

チェギョンは身震いした。

「でもぉぉ…クリスティーナのクリニック、どこだったか忘れたもん」
トボトボと通りを歩きながらつぶやいた。
シンに連絡してみたものの、彼は仕事が忙しいようでつながらなかった。彼に連れられてクリニックへ行ったから、一体どこにクリスティーナの勤めるクリニックがあったのかしっかり覚えていない。
どこかの駅の近くだったような気がするが、それもあいまいだ。


時間が経つにつれて、ドンドン痛みが増してきたような気がする。

チェギョンは不愉快さを抱えながら、歩いていた。


「チェギョン!」
名前を呼ばれて顔を上げると、リズが立って手招きをしている。
チェギョンは急いで義姉のもとへ向かった。




*****




仕事中に妻から何度も連絡が入っていた。ここのところ忙しくて、空き時間がないシンがやっと一息ついた時に、チェギョンからの着信履歴に気づいた。
急いで電話を掛けるものの愛しい妻に繋がらない。

―――何かあったのではないか?

シンは急に不安になった。

ただでさえチェギョンは可憐な容姿で人目を惹くというのに、人を疑うことを知らず危なっかしい。できることなら、24時間自分の目の届くところへ妻を置いておきたいほどだ。

チェギョンの実家へ電話をすると妻は来ていないという。
兄のアレックスへ電話をしたところ、兄の家にも来ていないとの答えだった。だから、リズと一緒かもしれないと思って、電話をしたというのにそこも空振り。

―――もしかしたら、家で倒れているかもしれない。

愛車を飛ばして帰宅すると、家は空っぽ。
そこでとうとうシンは途方に暮れてしまった。


ルルルルル

端末がけたたましく鳴る。これはリズ専用の着信。義姉は頼りがいがある一方で、シンにとっては目の上のタンコブでもあり、天敵でもある。彼女からかかってくる電話の8割以上はシンにとって迷惑でしかない。
それゆえ、着信音を変えてあるのだ。

今日のところは、天敵と言うよりは、チェギョンの情報を与えてくれる“素晴らしき義姉”だといい、と願いながらスマホをタップした。


「シン?チェギョン、捕まえたわよ。今一緒にいるわ」
「どこだ?パトリックのところか?」
「そうよ。あ、チェギョン、ちょっとこんなところで泣かないで」
「リズ!リズ?チェギョンが泣いてるのか?」
シンは大声で叫んでみたものの、リズの方は返事がない。ざわざわとした音の中に、チェギョンをなだめるリズとティナらしき女性の声が聞こえてくるだけだ。


「くそっ」
シンはスマホをジャケットの胸のポケットに突っ込むと、大股でガレージへ引き返した。妻が泣いているという。彼女を慰めるのは自分の役目のはずだ。

チェギョンのバンビのような大きな目が涙にぬれていると聞いただけで、胸が痛い。



「チェギョン、ほら泣かないで」
リズとティナが懸命になだめてくれるけれども、チェギョンはすっかりしょげていた。親知らずが痛いだけだというのに、トボトボと街を歩いているなんて、なんてみっともないのだろう。
歯痛と共に自分のふがいなさが切なくて、チェギョンは静かに涙を流していた。


ワトソン姉妹が頭を突き合わせて、ぼそぼそと小声で話している。

「妖精が泣くと、絵になるのよ」
「そう、だから見て、ほら。みんなチェギョンを見てるわ」

チェギョンは二人の会話が耳に入らなかった。それよりも夫はここへ来てくれるのだろうか。

「シン君、来てくれる?」
チェギョンがぐすんと鼻を鳴らして二人に尋ねると、
「来るに決まってるわ」
「来ないわけないでしょ」
と笑い飛ばされてしまった。

「ほら、来たわよ。チェギョンの王子様」
「あらあら、急いでるけど。大理石の床で転んだら面白いのに」
「今度ジュディに、しっかりワックスを掛けてもらわないと」
リズとティナが口々に楽しそうに話していた。チェギョンはこちらへ近づいてくる夫の姿に見とれた。


真っ黒なジャケットに、白いハイネックニット。ライトベージュのパンツと黒いスエードのブーツ。毎日見ているのに、見飽きることなんて一生ないだろう。

「チェギョン」
「シンくぅぅぅぅん」
チェギョンは立ち上がると夫の胸に飛び込んだ。強く抱きしめてくれる彼の腕。

両手で頬を包まれて顔をあげさせられた。
「泣いてるね」
シンは心配そうに覗きこんできた。
「ううん、もう大丈夫。シン君が来てくれたもん」
チェギョンはニッコリと微笑んで見せた。
「それならいいけど。今日はどうしたんだ?」
「あのね―――」

「ちょっと、そんなところで立ったままだと注目の的よ。座りなさい」
リズの声で我にかえる。チェギョンは真っ赤になった。シンの姿を見た瞬間、ここがどこだったかスッカリ頭の中から抜け落ちていたのだ。

「注目の的でも何でも構わない」
彼はちょっとムッとした顔で答えている。リズがフフンと鼻を鳴らした。
「あら、いいの?泣き顔のチェギョン、みんなが見てるのに」
「男性の目を集めてしまうのよね、チェギョンって」
リズとティナが口を挟むと、シンが素早くあたりを見渡し、何やら悪態をついた。
「チェギョン、座ろう」
彼に促されてチェギョンは座った。シンの膝に。




ティナが、呆れた顔で自分たち夫婦を見ているが、構うもんか。リズは慣れているのか、紅茶を飲みながら、小さなケーキを口へ運んでいる。
シンはオーダーを聞きに来たウエイトレスに、アフタヌーンティーを追加しようとした。
「チェギョンも食べるだろ?ここのホテルのアフタヌーンティーが好きだからね」
いつもなら喜んで頷く妻が、
「あ、あの…今日はいらない」
小さく答えた。
「どうした?チェギョンらしくないな」
唇で妻の額に触れてみたけれど、平熱だ。

ゴクンと妻の小さな喉が動いた。

「シン君…私の事、呆れると思うの」

チェギョンの目にまた涙が盛り上がってきている。シンはその涙を指で拭いながら、できるだけ優しく声をかけることにした。
「チェギョンのことで僕が呆れることなんて、今まで一度だってないだろう?だから、安心して話してごらん」
「う、うん…」
相当言いにくいことなのだろうか。チェギョンがもじもじとして、なかなか口を開かない。
シンは辛抱強く答えを待った。

「チェギョン、歯が痛いんだって」
「親知らずがズキズキしてるみたいよ」
ワトソン姉妹が横から口を挟んだ。

 

 

☆☆☆

こちらの話は、ブロ友の福娘さんとのコラボです。

福娘さんは、歯科医師のクリスティーナがヒロインの話を書いています。微妙にリンクしながら進んでいくので、福さんのお話もどうぞ~。

 

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