去年11月4年ぶりに孫が生まれ、それからというもの娘は2人の幼な子を抱え子育てに奮闘する毎日、その姿を遠まきに眺めるうちになんとも不思議な感じがしてきて、はてこれはなんだろうとさまざま頭が巡った。
何かというとまずなによりその娘も少し前まで赤ちゃんだったということだ。本人はここまでの道のりを長いと思っているのだろうが、親の目からすればそんなことはなくて感覚的にはちょっと前のことに過ぎない。
オムツを換えたり風呂に入れてやったり夜泣きに付き合ったり、確かにそれからもう30数年経っているのは頭では分かるのだが、それでも抱っこしたときのあの腕にかかるズシッとした重みだとか、腹に伝わるジワ~ッと生暖かい体温だとか、オムツを換えている時に手に引っかけられたオシッコの温みだとか、そんな感触はまだありありとこっちの体にリアルに残っていて、ほんとにまるできのうのことのようなのだ。
同じ当事者どうしでありながら両者でまったく違うこの時間感覚のズレというものは、それが親子の関係である以上どうやら古今東西 如何ともし難いものであってどこまでも埋まることはないらしい。そりゃそうだ、一方は強烈に憶えていて一方はほとんど憶えていないのだから。
ということで親の側からすれば、そうした子育ての記憶が今なおリアルな感覚として残り続けていることと、一方で実際にはそれがいつのまにかすっかり遠い過去のことになっていることとの間に、そう簡単に片づけられない何かモヤモヤしたものがあって、結局それを引きずったまま「嗚呼、時が経つのはどうしてこんなに早いのだろう」などとただただ首を傾げるしかない、どうやらそういうことになっているようなのだ。そしてそう思うと、ん?待てよ…であればこれは翻って自分の親たちもやっぱり同じように自分のことをそう思ってきたのか、なんてことに今さらながら初めて気づいたりもするのだ。
というわけで、その赤ちゃんだった娘が高々この30年程度の間に「育てられる」から「育てる」側にまわって立場がまったく真逆になっているということ、そのことにどうしてもどこかやっぱり不思議な感じがしてしまう。こうしてみると、どうやら世代交代という何代も続いてきた大きな括りからすれば、そのなかでの一代30年なんていうのはほんとアッというまのことらしい。
自分がしてきたこと、それを今は娘がやっている、そしていずれ今度は孫がそれをする、こうして時が繋がってゆく、人の世というのはずっとそれを延々と続けてきてそしてこれからも繰り返していくのだろう。いや、虫も鳥も魚も花も命あるものはみなそうなのだからこれはすべてに言える原理、とすれば人がそうであることも当然といえば当然、営みとしてはとりたてて特別なことでも何でもなく至極自然なことなのだろう(注=血縁としての親子の関係に限らずここでは社会全体として時をどう次に繋ぐかという世代の話)。
………………………………
こうしてみると自分の一代30年というのはそのなかでの橋渡し、世代の連鎖という長く大きな流れからすればそのなかでのほんの刹那に過ぎないことが分かってくる。しかしとはいえそれはまた同時にそこが欠けては全体が成り立たなくなるそうしたなくてはならないもの。人はこれを役割と言ってきたのかもしれない。
ただこうした見方も、その親業のさなかにある当事者にはなかなか気づきにくい。だいたい日々に追われているから一々感じたり考えたりする暇もない。それにもうひとつはそもそも自分が育てられている時はそれに伴う親の苦労なんてのもほぼほぼ本当のところまでは意識せずに済ませられてきている。そう、親の心子知らずというやつだ。ましてや自分がいずれこの親の側にまわるなんてことはおそらく想像だにしていなかっただろう。
なのでこんなことに気づくようになるのは、どうしても今の自分のように親としての役割をひとまず終えた者、そこから離れてその体験を遠くから俯瞰して眺められるようになった者、つまり簡単にいうと爺や婆やの立場になってからということになるのだろう。
………………………………
そしてもうひとつ、この世代交代というやつは決して家庭だけでもなく、どの職場にもどの集団組織にもそして大きくいえばどの社会にもそれと同じことがある。職場でいえば最近でこそ流動性が高まっているとはいえやっぱりその世代サイクルはだいたい30~40年、そのなかで先輩が後輩を育てては次から次へとバトンを渡して繋いでいく、やっぱり家庭の子育てと同じことをやっていてあちこちで淡々とそうした営みを続けている。
時代的にはヨコの繋がりが強調されるようになって久しく、あまりにそこが極端に強調され過ぎるからだろうそのぶんこうしたタテの繋がりがともすれば軽んじられ分断されるようになってきてはいるが、しかしこの人間の世に時間というものがある以上、意識するか否かを問わずこうしたタテの流れはどうやっても脈々と続いていく、なぜならそれが経たれる時というのは人類滅亡の時だからだ。
あの赤ちゃんだった娘がいま子育てに奮闘している姿も、こうした大きな流れからあらためて見てみるとなるほどそういうことかと頷けてくる。そしていま育てている子はあっというまに成長する、そしていずれ今度はその子も育てる側にまわる、娘もそこまで頑張ればその時に見えてくる風景は今とは全然違ってくる。
同じように自分が長くお世話になったあの古巣の職場でも(在職31年、辞めて15年)あのピカピカおどおど新採用だった後輩たちが、おそらくいまそのなかで次々入ってくる後進の育成に奮闘しているはずだ。そしてその育てた後進の若者が気づけばまたさらにその後進を育てる側にまわる。限りなく続いていくその世代のサイクル、頑張ってもう40代50代になってるだろうあの後輩たちはそんな風景をいまどう見ているだろう。
ただこんなことも、その真っ只中にある状態にある時にはいくら言ってみたところでさほどというかまったくというか実感というレベルまでには伝わらない、あくまでも当人がその時その立場になって自ら実体験をする、そしてそれを終えて一段落してみないことには分かり得ないのだ。なのでこちらはその最中にいる人にはそっと遠巻きにせいぜいこんなふうにエールを送ることしかできない。
大変だろうけどそんな苦労の時期もあっというま、なのでどうせならもう二度とやって来ないせっかくの今を大切にしながら楽しくやってねと。
するといずれそれも終わって後になってからこう思うだろう。
今はもうこんなに成長したけどまだあの頃はよちよちウブで可愛かったよな、少し経つとスネをかじってるくせに生意気なこと言ったり刃向かってきたりと手を焼くこともあったけど、終わって今になってみればそんなこともひっくるめて嗚呼おもしろかったな懐かしいよな。あれ?そういえば親だとか先輩だとかもそんなこと言ってたっけ……
親先輩になって分かる親先輩の有難さよ…
大変だからこそ世代を次へと繋ぐ喜びよ…