kitotan~音の細道 -2ページ目

kitotan~音の細道

~耳を澄ませば音の細道~
徒然にモノ書き&ピアノ弾き


花をつけ始めたこの木
日々ぐんぐん赤くなる




なんだろうと思ったら
そうか、ハナミズキか

う~すべにいろの~♪
あの歌が聴こえてくる

日本からアメリカに桜
を贈ったその返礼の木

そのことをずっと忘れ
ないでねということか

毎年決まって桜からバ
トンを受け継いで咲く




それだけでないここへ
きて一気に街が色めく

まるで先に出番を桜に
譲って終わるのを待つ

みなでそんな申し合わ
せでもしたかのように

あっちこっちで一斉に
咲き出すから不思議だ






それにしてもこうして
春の彩りに包まれると

彼らの生命力その勢い
に引きずられてなのか

なんだかこっちまで元
気になるから不思議だ




若い頃にはそんなこと
は微塵も思わなかった

花があろうがそんなの
脇目もふらずに一目散

道端を急ぐ時はお構い
なし踏みつけることも

今は感謝こそすれとて
もそんなことできない

なぜここまで人は変わ
るのとこれまた不思議







近所の公園、歩道、民家…あちこ
ちに桜があってくれるから嬉しい

それも広々ゆったりしているから
場所取り争奪戦も見たことがない

これも東京ほど人も建物も密度が
高くはない郊外の良さなのだろう






これまであちこち名の知れた所へ
電車で遠出することもしてきたが

どこもごった返してるから結局は
忙わしなくぞろぞろ歩いて終わる

これだともう花見というより人見
帰る頃はただただ疲れてぐったり

とすれば花見本来のひっそりゆっ
たり想いを馳せつつ風流に愛でる

それにはこの身近な桜たちがどう
やらやはり一番ふさわしいようだ






その桜もせっかくの満開がきのう
の大雨と暴風とで無惨なことに…

健気に頑張ってはいたが結局最後
力尽きた、短い命であった、合掌






遅くてみな待ちわびた今年の桜
それが開花3日でもう七分咲き

じっと溜め込んできたエネルギ
ーを一気に吐き出してるらしい

ただあいにくこの先は雨らしく
この調子だと散るのも早そうだ

それもあってか花見客が急いで
あちこち一斉に繰り出している

なかには桜がどうこうよりただ
一緒に群れたいそんな人もいる

ハロウィンとか最近では成人式
なんかもそうなってる気がする

こうした目立つところに一斉に
大勢が集まり群がるのをみると

なぜだろう自分のなかの偏屈な
天の邪鬼がひょっこり顔を出す

そしてこのゴミ集積所の脇にそ
っと咲く花に目がいったりする

争うでもなくひっそりただただ
目立たずに懸命に生きる者たち

この判官びいきは親父譲りのも
のだから今更どうにもならない

思えば生まれた時からそうした
まわりの人間模様を見て育った




とはいえだからといって桜が悪
いかといえばそんなことはない

桜は別に自ら目立とうとして咲
いているわけでもなんでもない

その営み自体は自然なものでこ
の花と何ら変わるところはない

とすればどれが目立ってどれが
目立たないかというその区別は

花そのものによるのでなく結局
それを見る人の側の問題らしい




…………………………………

これが花ではなく人になるとな
ぜかまた少し事情が違ってくる

人の場合は自ら強烈に意識して
の目立ちたがり屋も少なくない

なかでも実力以上にそう見せた
がる輩を見るともうゲンナリだ

一方で実力があるのにあまり目
立ちたがらない謙虚な人もいる

それでもまわりにやんややんや
持ち上げられれば本人は大変だ

望んでもいないのに祭り上げら
れるのだから何かと窮屈になる

…………………………………

とすればあの大谷選手はどうか
人気絶大で何かと注目を浴びる

本人は好きな野球に打ち込むだ
けでほかに興味はないようだが

それでも毎日その一挙手一投足
が根掘り葉掘り取りあげられる

大谷選手は確かに凄いがそれ以
上に過剰に持ち上げるマスコミ

どれだけ時間を割けば気が済む
のだろうという感じの過熱報道

そしてそれを見て狂信的になり
偶像崇拝してしまう共犯の群れ

この際限のない偶像化のなかで
なかなか出なかったホームラン

するとそれはあのせいだこのせ
いだと本人そっちのけでの弁護

こうなるともう本人もつくられ
た偶像から簡単に降りられない

きっと散ってもなおずっと偶像
として持ち上げられるのだろう

それどころか桜と違ってこのま
ま散ることすら許されないかも

…………………………………

誰かが旗を降りそれに引きずら
れることでつくられるこの熱狂

思えばあのヒトラーも、そして
今だとあの人、それにあの人…

知らぬまに一極集中の支配がつ
くられるのはいつもこの構造だ

翻って最近は実力や品性より数
の多少がすべてとの風潮が強い

すると数を集める手練手管に持
っていかれるからかなり危ない

一斉に何かひとつに向かうこと
に怖さを感じるのはこれらしい

それを見て反射的に判官びいき
になってしまうのもこれらしい

さてとそんなこともふまえつつ
今年はどこへ花見に行こうか…

いや近所でこんなゆったり見れ
るんだからもうこれで十分か…






きのうはびっくり
突然の夏日27℃

寒さが続いたから
ここで一気に解放

脱いで  脱いで
どんどん  脱いだ

奇しくもちょうど
きょうから新年度

気分一新ここから
またスタートだな

と思ったら
おお!あなたも…

サイタ  サイタ
サクラガ  サイタ







月曜日、久々に都内まで行ってきた
電車を降りまずいつもの場所で一服

客もまばらでゆったりジャズが流れ
さっきまでの外の喧騒が嘘のようだ

どこであれ行く先々に自分の落ち着
ける居場所があるのは嬉しいものだ

そんななか、はて前にここへ来たの
はいつだったかと記憶を辿ってみる

するとあれは2人目の孫が生まれた
時だからもう5ヶ月近くも前になる

不調続きで籠ってたからどうやら余
計に時が経つのが早く感じるらしい




ということで今度はそこから娘の家
へと向かいその孫を抱っこしてみる

すると、おお、首も据わってさらに
目を動かしたり指で何かつかんだり

ズシッと重いし顔つきも人間らしく
なってずいぶん成長しているようだ

それにしてもこの劇的変化、同じ5
ヶ月でもこっちと……比べてどうする




………………………………………

この日は朝から雨で空は見渡す限り
重苦しい雲にすっぽり覆われていた

隅田川からのスカイツリーも見えず
というよりまったく姿を消していて

4歳の孫は驚いて「あれ?ないよ、
どうしたの?」と盛んに訊いてくる

こういう時が困る、あれこれ説明し
てみるのだがキョトンとするばかり

大人ならいざ知らず初めてのことだ
からよっぽど不思議だったのだろう

そうかこうして体験を重ねて大人に
なる、これもやはり成長の過程か…




………………………………………

この日は近くの小学校で演奏会があ
るというので孫達を連れ行ってみる

東京は街の密度が高く校舎に満足な
グラウンドがないのは知っていたが

会場の体育館を探すと別棟ではなく
なんと校舎の3階だったから驚いた

平面が無理なら立体、学校ですら土
地の高度利用を図るしかないらしい

出演はこの学校の金管バンド、長い
歴史があり全国大会の常連だという

背筋が伸びた制服姿がなんとも凛々
しくもう大人の雰囲気が漂っている

始まると楽器をよく鳴らしていてさ
まざま表情も豊かでなかなかの演奏

途中からこれも大人顔負けのダンサ
ーが加わって見事なパフォーマンス

雨メドレーでは「雨に唄えば」「虹
の彼方に」「シェルブールの雨傘」

個人の腕前もそうだが曲の構成など
も練り上げられたいい演奏会だった

6年生はもう卒業式を終えての出演
節目のいい思い出になることだろう

ということでこの日は久しぶりに会
った孫といいこの小学生たちといい

先が楽しみな子どもたちからいっぱ
い元気をもらうそんな一日となった






きょうは朝から真冬並でブルッ!
やっと緑がかってきたこの蕾も…

22日と言われていた開花予想だが
このところの寒さで足止めらしい

確か去年は今頃はもう満開だった
今年は去年に比べ天候不順らしい

暖かかったり寒かったりこっちも
一進一退に合わせるのは大変だが

桜は裸だからもっと大変なはずだ
がんばってね、待ってるからね🌸




コロナ陽性から1ヶ月、後遺症らし
き咳のほうもやっとおさまってきた

そして一時足踏みだった天気、これ
もここへ来ていよいよ春めいてきた

春を迎えるこの陽気はなぜか人の心
を和らげ軽やかにするから不思議だ

そしてこの時季になると条件反射の
ように必ず頭に流れてくる歌がある

そうキャンディズの春一番だ、あの
なんとも軽やかなリズムとメロディ

50年前パチンコ屋で盛んに流れてい
たのが今なお染み着いているらしい

当時は手打ちの台だがこの歌が始ま
ると景気よくチンジャラと玉が出た

そんなわけでこの時季になるとあの
身軽だったフーテン学生時代が蘇る

バイト、音楽、映画、麻雀パチンコ
そしてその合間で飽くなき知の探求

その洋々と青春を送った高田馬場界
隈もそういえばすっかりご無沙汰だ

…………………………………………

こうして柔らかな陽差しに包まれ春
を迎えるのは今も昔も変わらないが

ただこの時季で当時と決定的に違っ
てるものがひとつある、そう花粉だ

あの無条件に喜べていた春の到来、
それを今はその花粉が足を引っ張る

しかもよせばいいのにピークが桜の
開花時季にちょうど重なるから困る

さらにさまざま感染症も今はずいぶ
ん暮らしにのしかかるようになった

コロナ、溶連菌、はしか…なんだか
次から次へと出てきて落ち着かない

一難去ってまた一難という感じだが
しかしこれも気にしたらキリがない

…………………………………………

考えてみると個人的にも去年からず
っとやれ足だの首だのコロナだのと

あちこち不調を来したことで気づけ
ば自粛しっ放しの日々が続いてきた

若い頃ならともかくここは無理せず
一つ一つ地道に治療に専念してきた

お陰で完治とまではいかないにせよ
ようやくどれもほぼ寛解状態にある

なので今の気分は岩戸から外を覗き
たくなったあの天照皇大神と同じか

行きたいところはいっぱいあるから
あれこれ気をつけながらもそろそろ

せっかくのこの春の陽気を機に少し
ずつ羽根を伸ばしていきたいものだ

まずはサクラか、開花予想は22日だ
という、おっともう来週ではないか…





去年11月4年ぶりに孫が生まれ、それからというもの娘は2人の幼な子を抱え子育てに奮闘する毎日その姿を遠まきに眺めるうちになんとも不思議な感じがしてきて、はてこれはなんだろうとさまざま頭が巡った。

何かというとまずなによりその娘も少し前まで赤ちゃんだったということだ。本人はここまでの道のりを長いと思っているのだろうが、親の目からすればそんなことはなくて感覚的にはちょっと前のことに過ぎない。

オムツを換えたり風呂に入れてやったり夜泣きに付き合ったり、確かにそれからもう30数年経っているのは頭では分かるのだが、それでも抱っこしたときのあの腕にかかるズシッとした重みだとか、腹に伝わるジワ~ッと生暖かい体温だとか、オムツを換えている時に手に引っかけられたオシッコの温みだとか、そんな感触はまだありありとこっちの体にリアルに残っていて、ほんとにまるできのうのことのようなのだ。

同じ当事者どうしでありながら両者でまったく違うこの時間感覚のズレというものは、それが親子の関係である以上どうやら古今東西 如何ともし難いものであってどこまでも埋まることはないらしい。そりゃそうだ、一方は強烈に憶えていて一方はほとんど憶えていないのだから。

ということで親の側からすれば、そうした子育ての記憶が今なおリアルな感覚として残り続けていることと、一方で実際にはそれがいつのまにかすっかり遠い過去のことになっていることとの間に、そう簡単に片づけられない何かモヤモヤしたものがあって、結局それを引きずったまま「嗚呼、時が経つのはどうしてこんなに早いのだろう」などとただただ首を傾げるしかない、どうやらそういうことになっているようなのだ。そしてそう思うと、ん?待てよ…であればこれは翻って自分の親たちもやっぱり同じように自分のことをそう思ってきたのか、なんてことに今さらながら初めて気づいたりもするのだ。

というわけで、その赤ちゃんだった娘が高々この30年程度の間に「育てられる」から「育てる」側にまわって立場がまったく真逆になっているということ、そのことにどうしてもどこかやっぱり不思議な感じがしてしまう。こうしてみると、どうやら世代交代という何代も続いてきた大きな括りからすれば、そのなかでの一代30年なんていうのはほんとアッというまのことらしい。

自分がしてきたこと、それを今は娘がやっている、そしていずれ今度は孫がそれをする、こうして時が繋がってゆく、人の世というのはずっとそれを延々と続けてきてそしてこれからも繰り返していくのだろう。いや、虫も鳥も魚も花も命あるものはみなそうなのだからこれはすべてに言える原理、とすれば人がそうであることも当然といえば当然、営みとしてはとりたてて特別なことでも何でもなく至極自然なことなのだろう(注=血縁としての親子の関係に限らずここでは社会全体として時をどう次に繋ぐかという世代の話)。

               ………………………………

こうしてみると自分の一代30年というのはそのなかでの橋渡し、世代の連鎖という長く大きな流れからすればそのなかでのほんの刹那に過ぎないことが分かってくる。しかしとはいえそれはまた同時にそこが欠けては全体が成り立たなくなるそうしたなくてはならないもの。人はこれを役割と言ってきたのかもしれない。

ただこうした見方も、その親業のさなかにある当事者にはなかなか気づきにくい。だいたい日々に追われているから一々感じたり考えたりする暇もない。それにもうひとつはそもそも自分が育てられている時はそれに伴う親の苦労なんてのもほぼほぼ本当のところまでは意識せずに済ませられてきている。そう、親の心子知らずというやつだ。ましてや自分がいずれこの親の側にまわるなんてことはおそらく想像だにしていなかっただろう。

なのでこんなことに気づくようになるのは、どうしても今の自分のように親としての役割をひとまず終えた者、そこから離れてその体験を遠くから俯瞰して眺められるようになった者、つまり簡単にいうと爺や婆やの立場になってからということになるのだろう。

               ………………………………

そしてもうひとつ、この世代交代というやつは決して家庭だけでもなく、どの職場にもどの集団組織にもそして大きくいえばどの社会にもそれと同じことがある。職場でいえば最近でこそ流動性が高まっているとはいえやっぱりその世代サイクルはだいたい30~40年、そのなかで先輩が後輩を育てては次から次へとバトンを渡して繋いでいく、やっぱり家庭の子育てと同じことをやっていてあちこちで淡々とそうした営みを続けている。

時代的にはヨコの繋がりが強調されるようになって久しく、あまりにそこが極端に強調され過ぎるからだろうそのぶんこうしたタテの繋がりがともすれば軽んじられ分断されるようになってきてはいるが、しかしこの人間の世に時間というものがある以上、意識するか否かを問わずこうしたタテの流れはどうやっても脈々と続いていく、なぜならそれが経たれる時というのは人類滅亡の時だからだ。

あの赤ちゃんだった娘がいま子育てに奮闘している姿も、こうした大きな流れからあらためて見てみるとなるほどそういうことかと頷けてくる。そしていま育てている子はあっというまに成長する、そしていずれ今度はその子も育てる側にまわる、娘もそこまで頑張ればその時に見えてくる風景は今とは全然違ってくる。

同じように自分が長くお世話になったあの古巣の職場でも(在職31年、辞めて15年)あのピカピカおどおど新採用だった後輩たちが、おそらくいまそのなかで次々入ってくる後進の育成に奮闘しているはずだ。そしてその育てた後進の若者が気づけばまたさらにその後進を育てる側にまわる。限りなく続いていくその世代のサイクル、頑張ってもう40代50代になってるだろうあの後輩たちはそんな風景をいまどう見ているだろう。

ただこんなことも、その真っ只中にある状態にある時にはいくら言ってみたところでさほどというかまったくというか実感というレベルまでには伝わらない、あくまでも当人がその時その立場になって自ら実体験をする、そしてそれを終えて一段落してみないことには分かり得ないのだ。なのでこちらはその最中にいる人にはそっと遠巻きにせいぜいこんなふうにエールを送ることしかできない。

大変だろうけどそんな苦労の時期もあっというま、なのでどうせならもう二度とやって来ないせっかくの今を大切にしながら楽しくやってねと。

するといずれそれも終わって後になってからこう思うだろう。

今はもうこんなに成長したけどまだあの頃はよちよちウブで可愛かったよな、少し経つとスネをかじってるくせに生意気なこと言ったり刃向かってきたりと手を焼くこともあったけど、終わって今になってみればそんなこともひっくるめて嗚呼おもしろかったな懐かしいよな。あれ?そういえば親だとか先輩だとかもそんなこと言ってたっけ……

親先輩になって分かる親先輩の有難さよ…
大変だからこそ世代を次へと繋ぐ喜びよ…






ここ最近は一転この冬一番の寒さ
暑くて半袖だったのが嘘のようだ

皆またダウンにマフラーや手袋を
引っ張り出して悲鳴をあげている

そして暗い空に冷たい雨とみぞれ
毎日こうだとやはり気も重くなる

ここは何かすっきりできる音楽を
と探してたらこんなのが出てきた

星がテーマの曲だがまずタイトル
がいい、パーッと気持ちが広がる

◾️「So many stars」
  kitokam duo 20101116(2'42")


星といえばなんだろうあれやこれ
やいろいろなことが浮かんでくる

あちこち話はとっちらかるかもし
れないが思いつくまま書いてみる

…………………………………

目の前に無限に広がる満天の星…
無音の闇に浮かびあがる別世界…

その緻密さ壮大さに圧倒される…
その体験はものの見方を変える…

ただこれも光と音にまみれる都会
だと無理で田舎へ出向くしかない

自分は幸い田舎に生まれ育ったが
とはいえそれでもまだ幼いうちは

それが当たり前で何とも思わない
言われても何が凄いか分からない

人がそれらに心が動くのは自我が
芽生えてそのあとのことだそうだ

幼い万能感が薄れ現実が見えてく
ると初めて畏れを抱きたじろぐと

自分の場合だとそれは爺々が死ん
だ7歳の時だったような気がする

死んだらみな体が天へ昇るものと
思ってたから日がな空を見続けた

しかしいつまで経っても見えない
じゃ人はどこへ行っちゃうんだ?

いなくなったことよりどこへ行っ
たか分からないのが納得できない

それはねお骨になってねと言われ
てもどうしても理解できないのだ

そのうちに死ぬということが急に
怖くなり震えが止まらなくなった

今思えばどうやらそれが不条理と
いうものとの初めての格闘だった

…………………………………

そしてその後の数々の満天の体験
今も記憶に残るのは特に次の3回

ひとつは中3の時、校内マラソン
の練習で友達と故郷の郊外を走り
その途中の川縁で寝そべって見た

次は大学3年の時、信州戸隠中社
の古い宿、蔵の喫茶でキースジャ
レットを聴いたあと裏の丘で見た

そしてもうひとつは、帰省した時
に娘を連れ母校のグラウンドから
ペルセウス座流星群を見た火球も

どれも眺めていると言葉を失った
そしていかに人間がちっぽけか…

そして人間にはどうにもできない
やはり不条理な世界があることも

10代 20代 40代と その時々で自分
の置かれた状況は違ってはいたが

その圧倒的な光景の前では何度見
てもそのたびたじろぎ心奪われた

…………………………………

いったいこれは何なのだろうと考
えるのだが結局はよく分からない

見上げているともうすべて放り出
して身を委ねたい誘惑に駆られる

圧倒的な包容力でほんとそこに溶
け込んでいってしまいそうなのだ

実際そのままいってしまった人も
近い関係だったなかで何人かいた

それでもひとたび眼を下に向ける
と自分の足は変わらず地面にある

何れかに吸い寄せられるでもなく
2つに引き裂かれるわけでもなく

そんな生煮えのままで体は地上を
這い続け心は天上を見続けるのだ

二律背反にしか見えないこの天と
地だが、はて本当に別物なのか…

そのはざまに置かれ分からぬまま
そこでもがくしかない人間の宿命

彼岸の spiritual と此岸の physical
唯一これを繋ぎ止めるのは祈り?

銀河鉄道の夜でジョバンニが最後
に見上げた夜空もこれだったのか

そしてよだかの星でよだかが最後
天に昇ってゆく時に見た夜空も…

人は自分の限られた体験に照らし
あれこれ想像を巡らせ答えを探す

……………………………………

結局この闇から見る満天の体験は
実際自分のこの眼で見るしかない

この壮大な物語はとてもカメラに
収めきれるようなものではないし

どんなに巧みに言葉を駆使しても
とても言い表すことなどできない

仮に自分なりに伝えられたと思っ
ても受けとる心象は人それぞれだ

音も言葉と同じで無力だがでも自
分にできるとすればこれしかない

姿は再現できないにせよせめてそ
れに突き動かされた心くらいは…

とは思うもののなぜか表現という
のはこれでよしということがない

さあこれでどうだとやってみても
そのたびハネ返されるその連続…

いつまでも行き着くことがないと
分かっていながらもなおそれでも

先の見えぬままそれを続けるしか
ないのはやはりちっぽけな人間…

そんなんで伝わるかと思いながら
もなぜかそれをやめられない性…

……………………………………

わたしの心象、あなたの心象、
人の数だけあるそれぞれの心象…

二律背反に見える天と地がタテの
関係ならこの人と人はヨコの関係

やはりバラバラにも見えてくるが
はて、これも本当に別物なのか…

そのはざまに置かれやはり同じく
そこでもがくしかないのだろうが

それでもそれぞれ個々バラバラの
physicalと心象を超えたその先に

どこか誰か少しは繋がり合うこと
もしやあるのでは…とこれも祈り…


◾️「見上げてごらん夜の星を」
           鍛紅 20081018(5'16")





太陽の軌道はまだ低いがそれでも少
し温もりを感じるようになっている

それに夕方でもまだ明るいから昼も
じわじわと長くなってきてるようだ

確かに暦のほうも立春、12月冬至と
3月春分の既に中間点を越えている

日の積み重ねというのは不思議なも
のでふだんは意識することもないが

こうしたなにげない時にああそうか
と後から気づくそういうものらしい

……………………………………

こうした冬から春への移り変わりを
もし漢字一文字で表せと言われれば

寒→暖、暗→明、閉→開、重→軽…
とまあだいたいこんなところだろう

これらの字が示すとおりこの時季に
はなんとも解放的な広がり感がある

雪国生まれだから特別かもしれない
が心がえらく浮き浮きしてくるのだ

このところ日中の気温は15℃ほどが
続きこれは3月4月の陽気だという

さらに先日はそれが20℃にまで上昇
この暖かさによし!脱いで半袖に…

すると心身ともすっきり軽くなって
嗚呼、これは久々にあの春の気分…

……………………………………

ただ、あれ?目ちくちく鼻もぞもぞ
むむっ?これは……ハ、ハクション!

どうやらこの暖かさに浮かれてるの
は人だけというわけではなさそうだ

それどころかまだこっちは心だけの
浮わつきにとどめているというのに

ヤツらといったらもう喜びを全身で
表して飛び跳ねては暴れまくるのだ

他への迷惑省みずせっかくの春を興
醒めにしてしまう厄介者のこの花粉

元気であればあるほどこっちは被害
を蒙るのだからほんと困ったものだ

でも愚痴を言っててもしょうがない
元はといえば人間の管理能力のなさ

それを棚にあげ当たるのは本末転倒
となればマスクで乗り切るしかない

……………………………………

そしてクシャミは花粉のせいとばか
り思ってたら喉の調子までおかしい

しまいに熱も出てだるくなってきた
ん?風邪かインフルか、それとも…

念のため病院へ行く屋外でまず検査
待つと先生が来て「コロナ陽性です」

なんとこの4年間頑張ってきたのに
ここへ来てついにやられてしまった

どこでどう染ったのか足跡を辿って
みるがまったく思い当たる節はない

ということは相当の感染力なのだろ
う、こうなるともう防ぎようがない

幸い処方された風邪薬で3日おとな
しくしてたら嘘のように回復したが

とはいえこれもとりあえずのことで
このまま重症化せずに済めばいいが

そのためには後遺症のことも含めあ
と少し大事をとらなければならない

それにしても発症が丁度誕生日とは
なんとも皮肉な贈り物であることよ

……………………………………

こうして花粉、コロナ…生きていく
のもずいぶん厄介になったものだが

まあこれも春の喜びをより大きくし
てくれるステップだと思うしかない

「禍福は糾える縄の如し」「人間万
事塞翁が馬」先人達の言葉が浮かぶ

何でもそうだが自分の思うようにそ
うそうすべて良しとはならないのだ

世は一進一退でいつも螺旋状に進む
これも誰だったか確か歴史家の言葉

良いことあれば悪いことあり、悪い
ことあれば良いことありその繰返し

そのたび一喜一憂、右往左往しても
何も始まらないし第一身が持たない

要は「どうあろうと」という感じで
どんと構えるよりほかないのだろう

そういえば JAZZ にもそんな曲があ
ったっけ come rain or come shine

なんてまたあれこれと想像を巡らせ
ていたら、あれ?どこかから声が…

何だ?か細い…「ソウソウソノチョウシ  マッテテネ」
今度は誰だ?…見えない…耳を澄ます

すると微かに足音が…「ヒタヒタ  ヒタヒタ」
だんだん近づいて……ん?もしや桜…