今日はお盆の送り火、電車は休日ダイヤである。電車も道路も空いている。足助の香嵐渓を通りかかると、水遊びの人たちでいっぱいだった。香嵐渓は秋以外でも混むときがある。ウナギの川安はお盆休み。国道153号( 飯田街道、中馬街道とも)は長野方面に向かう車が繋がっていた。
この頃はお盆のお経をあげてもらうくらいで他には何もしなくなってしまった。盆賀には行っている。妙厳寺はお参りするところが建て替えられてから初めて入った。以前の方が堂奥という感じでよかったが、 かなり危険な状態と聞いていたので、これも時の流れ。この時期、空襲や原爆の展示が各所でされるが、設楽町役場では、長崎の原爆惨禍の展示をしている。去年は広島だった。黒焦げの母子の写真に目がとまる。核兵器の使用は戦闘員と非戦闘員の区別なく夥しい死傷者を出すまぎれもなく戦争犯罪である。
「戦争と平和の法」を著したグロティスは国際法の父とされている。三十年戦争が背景にあったという。国際法は戦争のルールを決めることがそもそもの始まりであった。人殺しのルールとは、なんということだろう。ウィキペディアによると、「戦争と平和の法」には「戦争の合法性」という章がある。軍隊同士の人殺しはある場合には合法となる。国際社会とは、おぞましい社会だ。国連は戦争を防ぐことが設立の主な理由であろうが、今、最大の戦争の抑止力は、核兵器だ。核の使用は犯罪だが、お互いが持つことによって、双方が使用を思いとどまり、戦争の発生を防いでいる。核兵器保有国が戦争することはない、と思いたいところだが、インドとパキスタンでは戦争があった。イスラエルとイランも危険な関係にある。それでも大事にならず、核使用にまで至らないのは、人の自制心であろう。心許ないが、システムではなく、自制心というものが働いて破滅せずに済んでいる。頼りない話だ。自制が辞世にならぬとも限らぬと、洒落を出している場合ではない。
映画「英雄の条件」(Rules of Engagement)はイエメンの米大使館を包囲する群衆への海兵隊員の発砲で多数の死傷者が出た事件を題材にしたものだが、確か、 サミュエル・L・ジャクソン扮する責任者は軍法会議で無罪になったと記憶している。検索すると、弁護はトミー・リー・ジョーンズだった。懐かしい。名優。
この映画で「交戦規定」というものがあることを初めて知った。今、「 交戦規定」で検索すると、 防衛省防衛研究所の資料が出てきて、始めの方に、「・・・戦争法や武力紛争法と呼ばれる一連の国際法規は、数百年にわたる戦争の歴史の中から我々が作り上げてきた法体系である。現代社会における武力行使については、いずれの国家も、武力紛争法規に違反することなく、・・・」と書かれている。
核兵器の使用がされないのは、核兵器があるから。人類の最大の敵、平和の最大の脅威が平和を支えているとは、逆説もいいところだ。
逆説と言えば、 耐乏革命論。まだ戦後の労働運動の勢いが続き、労組組織率も高く、ストライキもあった高度経済成長時代、社共両党率いる労組は賃上げ闘争に専心していた。その目指すところは革命なのだが、耐乏革命論が正しければ、賃上げ闘争は反革命行為である。革命のためには賃下げ闘争をしなければならない。これは西洋政治史のN教授の言説。授業に魅力を感じ、ゼミに入ろうかとも思ったが、レベルが高すぎてついて行けないかも、と心配して、別のゼミに入った。娑婆と知的世界を行き来していたあの頃が、今は懐かしい。
核兵器が平和を支える強固な礎なら、これを持たなければ自国を危うくする。非核三原則は平和に対する脅威となる。櫻井よしこ氏は先日の講演で、アメリカにはもう日本を守る国力はない、といわれたそうだが、現に中国公船は領海侵犯を繰り返し、北朝鮮は日本を焦土にすると言って憚らない。70年以上続いた平和は、アメリカの庇護、日米安保によってだ。国家予算を経済成長に注力できたのも、これがあったから。国際社会でアメリカの地位が下がり弱体化すれば、自らが強くなるしかない。平和憲法を守るために核兵器を持たざるを得ない、とは、これいかに。
とはいえ、最後の砦は人の自制心。これがいかに脆いかは、JAFの最近号に載っていた身の毛もよだつ交通事故(故意犯なら事故ではなく事件とすべきだが)を読めば分かる。
こんなことは忘れて、今の平和を味わうべきか。未だに「土佐日記」を読んでいない。 藁科れいの「永遠と一日」は本の中に入る話だ。 とにもかくにも、古典の世界に逃げ込むべしか。