今年もはや7月後半、日の出日の入りともにゆっくりと秋に向かい始めた。
  種まきが遅かったが、ようやく日よけ用ネットを張るまでに朝顔が育ってきた。
  朝顔と比べ、キュウリの成長はすさまじい。みるまに背丈ほども伸び、盛んに実り、終わりも早い。例えれば花火。朝顔は始めはゆっくりだが、伸び始めると結構早く、花は晩秋まで残ることもある。そしてたくさんの種を残す。 キュウリと朝顔、人の世を見ているような気になる。
  毎朝草と格闘しているが、簡単に抜けるのや、掘らないと除去できないのもあり、地面を這うように繁茂して掴みにくいのもある。様々。
  朝顔と言えば、秀吉の話。見事な朝顔を期待して利休の茶室を訪れたにもかかわらず茶庭の朝顔は皆切られていて、怒り心頭。茶室の一輪の朝顔にも気がつかなかった風情。絢爛豪華を目指す秀吉、  侘び寂び、あるいは閑寂枯淡はその対極。この時、利休はどのような心構えだったのだろうか。生殺与奪の権を握る秀吉、朝顔のように首をかかれてもしかたがなかったのではないだろうか、それでもそうはならなかった。
  大徳寺の利休像の事件。これで切腹にと進んでいくのだが、秀吉はそこまで行かずに済む落としどころも考えていたようだ。だが、利休は応じなかった。その理由には諸説在るが、そうせざるを得なかった、という映画「花戦」の描き方には妙に納得した。晩年の秀吉には蛮行が目立つが、その理由も映画で想像がついたような。
  利休と同じく信長・秀吉時代に活躍した池坊専好。茶華道の心得はないが、映画を観て、花を生けるのは、それぞれの花の本来の姿を現そうとすることだ、と推察する。本来の姿とは、真実、真実とは、ヘッセの小説で出てくる、内面への道の先にあるものかもしれない。見えないものを、言葉で、あるいは花で、その真実の姿、存在を観じ現す。話は飛ぶが、古代ギリシアから論じられてきた「存在」という難問(らしい)。ある講座で「存在と時間」を難渋しつつ学んでいるが、真実を生け花という手法で探る華道、言葉で探る哲学、言語では何百何千もの語を使っても語りおおせず、花もその姿は千変万化、真実を求める道はどこまでも続こう。
  「存在」をめぐる哲学思考と華道と、求める先なるものは、と、ふと、映画を観て、両者になんとなく相通じるものを観じた。