今回は時系列的には少しだけ遡りまして、1941年12月から翌年にかけて行われたフィリピン攻略戦の中で起きたいわゆるバターン死の行進について話をしていこうと思います。
youtube https://www.youtube.com/watch?v=VicKo3CDBX4
ニコニコ http://www.nicovideo.jp/watch/sm30472379
この時はまだ日本軍が戦闘を有利に進めていて、フィリピン攻略戦でも予定より時間はかかったものの自信満々のマッカーサー率いる部隊を粉砕し、バターン半島まで占領することになります。この時にアメリカ軍から7万5千人というとんでもない数の降伏者が出てしまった事がいわゆるバターン死の行進という悲劇を生む結果となります。
バターン半島をめぐる日米軍の戦いはかなり激しいもので戦闘が終わった時には日本軍もアメリカ軍もかなり疲れきっていました。さらに、日米両軍ともに食糧すら十分ではなくマラリアとかデング熱に感染している人が相当な数含まれていました。戦地に留まっていては診察も受けられないし食料もまともにありませんから移動しなければならないのは分かりますよね。
ところが、日本軍だけでも食料もトラック等の機材も全然足りないのに、倍近い数の米軍捕虜までいるわけです。となると、鉄道が使えない区間は歩いて行く以外方法がないわけですよ。そこで88kmの距離をしかたなく歩いて移動するという選択をしたわけです。歩かなければ死ぬしかないですからね。
結果としてはマラリア感染者を中心に2000人程の死者が出てしまい、これを指してアメリカでは「バターン死の行進」と呼んで日本軍は残虐だという宣伝していたわけです。しかし、もしこの行進をしていなければ食料も医療設備も十分でない所に留まるわけですからもっと多くの死者が出ていたはずですよね。しかも88キロを1日で歩かせたとかいうわけでもなく休憩をはさみながらの行進です。こんな緩い死の行進がいったい何処の世界にあるんですかね?さらに言えば、捕虜であるアメリカ兵が水筒だけしか荷物が無かったのに対し、日本兵は装備や食料を積んだ20キロ近い荷物を背負って歩いていたわけですから日本兵とアメリカ兵、どちらの方が過酷な状況だったかは明らかです。これを捕虜を殺すために歩かせた死の行進だというのなら日本兵はどんだけひどい虐待されてたんですか?
まぁアメリカ軍は当時、移動にトラックを使うのが当たり前で、歩くのが普通だった日本軍とは感覚がそもそも違いますから虐待と感じるのも無理はないかもしれないですが、それにしたって一方的すぎますよね。歩かなければみんな死んでいたわけですから「バターン死の行進」なんて名前はちゃんちゃらおかしいですよ。「バターン生の行進」とでも改名すべきですね。ちなみに指揮官のマッカーサーはっていうと真っ先にオーストラリアに逃げて生き延びています。
そしてこの行進にたいして戦後すぐならしかたないかもしれませんが、2010年に岡田克也が米兵捕虜への謝罪までやっているんですね。 ホント、何がやりたいのか分からない。
余談なんですが、ガチで死の行進と呼んでも問題ないような事ってなかったんかなって思って調べてみたらありましたよ。時は1838年、アメリカ先住民であるネイティブインディアンの人たちをミシシッピ川より西の辺境の地に強制移住させた時の話です。
当時、ミシシッピより東ってのは土地が豊かでしたから白人達がそっちに住んで、ネイティブの連中は邪魔だからまともに作物も育たない西の地に追い払ったわけです。その後西側から金がとれると分かると、そこからも追い出す事になるんですが、それはまた別の話ですね。
この時に鍛えている軍人でもないただの一般人に1300キロの道のりを徒歩移動させるというとんでもない事が行われています。しかも冬を挟んでの移動でしたから当然餓えと寒さで死者が続出していきます。
15000人いた移住者たちなんですが4000人は旅の途中で亡くなっています。アメリカではこの残虐かつ悲惨な出来事を何と呼んでいると思いますか?
「The Trail of Tears ~涙の旅路~」ですよ。
インディアンを強制移住させたときには女子供だろうが関係なく歩かせた挙句4分の1近い4000人を死なせたにもかかわらず、「涙の旅路」と言い、戦闘で自分たちが負けて捕虜が生きるために歩かされた事に対しては「死の行進」と堂々と言えるこの感覚、僕にはちょっと真似できないですね。
次回は5の倍数回という事で、歴史の流れからちょっと離れまして、日本に古くからある言霊という考え方に絡めてちょっと話をしてみようかなと思います。読者登録および、動画のチャンネル登録、お気に入り登録をよろしくお願いします。