渓声山色(けいせいさんしょく)

渓声山色(けいせいさんしょく)

広島・島根・山口へおいで



広島県・島根県の紀行です。

渓の声、山の色は真実そのものである。

中国地方や中四国の山のガイド本は

ほとんどが広島、山口、島根の3県が中心になります。

この本も例外ではなく、

鳥取県の山は2座のみの収録です。

逆に言えば、広島、山口、島根の山には

ハードルの低い山が多くて登りやすいとも言えます。

広島市内の山は展望が良く、登山口まで電車で行くことのできる山も多いです。

 

【日本海テレビは中国地方2番目の民間テレビ局】

日本海テレビは1959年(昭和34年)3月3日に鳥取市本町で開局しています。

この日同時にNHK標準テレビ(総合テレビ)も開局しています。

中国地方ではラジオ岡山につぐ2局目の民間テレビ局です。

はじめは久松山に送信所の鉄塔を建てることになっていましたが、

青谷町(鳥取市)と東郷町(湯梨浜町)の境にある、鉢伏山にNHKと日本海テレビの送信局ができました。

そのため、鳥取県東部と中部は鳥取県、島根県の中で初めてNHKと民間テレビ放送が視聴できるようになりました。

鉢伏山では

日本海テレビ  1チャンネル

NHK総合テレビ 3チャンネル

NHK教育テレビ 4チャンネル(1962年開局)

の電波が出ていました。

日本海テレビがこんなに開局を急いでいたのは島根県と兵庫県進出を伺っていたからです。日本海南部地域で一番テレビ局になることを考えていたのです。

しかし、1970年頃までは民間テレビ局の電波は三大都市圏以外は一県一波だったので、島根県進出は1972年を待たなければなりませんでした。

兵庫県の但馬には在阪のテレビ局のUHF局ができたので、進出はできませんでした。

1959年3月3日に日本海テレビとNHK総合が開局したものの、

東京からの放送を受信するための電電公社のマイクロウェーブが完成していなかったのです。

NHKも民間テレビ放送もローカル番組以外は東京のキー局からのニュースや各番組をリアルタイムで受信して、各家庭に送信しているわけです。

NHKはとりあえず、NHK岡山放送局から人形峠経由で送ってもらっていました。

日本海テレビは開局から2ヶ月間はコマーシャルなしのローカル番組だけでした。

電電公社のマイクロウェーブは太閤ヶ平にあり、今はNTTドコモの鉄塔として使われています。

マイクロウェーブが完成してから、大きな問題が生じました。

日本海テレビはフジテレビとの関係が強く、社員研修もフジテレビで行うなどしていたので、フジテレビをキー局にしたかったのです。

マイクロウェーブ回線はUHFより波長の短いSHF(マイクロウェーブ)の電波を山頂にある電波鉄塔でリレー形式に送っていくものですが、

太閤ヶ平のマイクロウェーブは豊岡方向と米子方向に向かってパラボラアンテナがついていました。

太閤ヶ平のマイクロウェーブでは豊岡方向からの電波を受けるのですが、大阪から直接豊岡に行くのではなく、北陸経由で行くことになっていました。北陸にフジテレビ系列の局がなかったので、泣く泣く日本海テレビはTBSをキー局にすることになりました。

さらに半年後に島根県のラジオ山陰(本社は米子)がテレビ局としてめ開局することになり、TBSをラジオ山陰に譲ることになりました。

最終的に日本海テレビは日本テレビ系列になっています。

【鵠が捕まった場所の考察】

鳥取部は製鉄、製銅だけでなく、翡翠などの石を掘る集団だったかもしれません。

まず整理しておかなければならないのは『古事記』と『日本書紀』の性格です。

『古事記』神話中心で天皇の正統性を強調

『日本書紀』神話も天皇の正統性もだが、中国の歴史書を意識している。

『日本書紀』は歴史書としての性格を意識している点が『古事記』とは大きく異なります。

これを前提に考えてみると、

『古事記』にある越の国で鵠を捕まえたというのは、翡翠の産地てある糸魚川に辿りついたということです。

三種の神器には翡翠はありませんが、当時、翡翠は極めて希少な宝玉で、権力の象徴ではなく、権力を持つ前の呪物だったと考えられます。

大国主命の妻の一人、沼河比売は糸魚川の翡翠の産地の人でした。

八上姫のいた八上地域でも若桜なとで翡翠が出ます。

大国主命は実は翡翠を探す学者集団だったのかもしれません。

『日本書紀』の鵠が捕まった場所は性格が違います。

出雲の宇夜で捕まったことになっていますが、荒神谷遺跡の場所です。近くには加茂岩倉遺跡もあり、銅の文化のメッカです。

一説には但馬ともありますが、生野銀山周辺で古くから銅が採れていました。

『日本書紀』は持統天皇の時代までのことが書いてあり、神話よりその時代の社会情勢を反映しているところがあります。

翡翠より銅が必要な時代だったのです。

完成したのは僅か8年の差ですが、『古事記』『日本書紀』の性格は違うのです。