船は博多港を出港し、東シナ海にさしかかってきました。しかしこの日の海は大荒れ、輸送船は木の葉のように大きく揺れ、船内はたって歩くことが出来ない程の揺れで、トイレに行くにも赤ちゃんのように這っていかなければならないほどでした。私は船酔いに以前から弱いほうなので人一倍苦しみました。トイレの通路にはやはり、船酔いの人たちで足の着く場もなく、辺りは吐いて顔は青ざめ唸って横になっている人でどうにもならない状況でした。私も歩くことが出来ないほど船酔いが激しかったのでその場に横になったまま吐き気をどうすることも出来ませんでした。こういゆう状況で釜山港に着いたのはその日の夕方でした。護衛偵察は到着するまで実施されていたようでした。

 下船する時は、余りの船酔いに体のバランスが崩れたのか人ので歩くことが出来ないので人の手を借りてやっと下船しました。

 釜山駅のホームには、軍用列車が配車されており、直ちに乗車命令が下り乗車、その日の夜中には釜山駅を後に北進をしました。窓の開閉は固く禁じられているので中々外の様子は見ることは出来ない。特に夜行列車は灯りが絶対もれないように少しの隙間も固くふさがれていた。外敵から列車の襲撃を防ぎ、スパイからの列車の安全を確保するための暗闇列車だった。列車は昼の運行より夜間の運行が長かった。やがて朝鮮国境を通過、列車は満州へと入り、更に北進した。途中の駅で大休止の時間もあり、運動のため時折下車が許された。初めて見る東満州の景色は白一色で顔面が突き刺さるような寒気で吐く息は凍てつくようであった。真冬の満州、噂では聞いていたが想像以上に寒さが厳しかった。列車は更にソ連国境に向かって東満の鉄路を北進続け国境の街、虎林駅に到着した。下車してみると、駅の北側に暴風網のような網の柵がかなりの距離に設置されていた。どうやら

ソ連側から駅の様子が見えないようにと張ったものらしい。下車して直ちに数十台の軍用トラックに分乗して、国境沿いに更に北進を開始した。途中の駐屯地に宿泊を繰り返しすること、数日に渡って満州特有の地吹雪のためトラックが前進することが出来なくなり一週間以上も駐屯地に足止めさせられることもあった。弘前を発って丁度一ヶ月の三月末に

ソ連の山々が遠くに見える最終地に着いたのはその日の夜中だった。到着間もなくして夜明けとなった。あたりを見渡すと兵舎の外壁は土壁、屋根は草葺で平屋建てで、電気は全くなく、採光は石油ランプだけであった。周囲の状況は民家もなく白樺林に囲まれた草原の中にコツンとたっているような兵舎でした。正直いってゾッとしました。

 朝の点呼が始まり、班長より地名は西南盆、中隊本部は六キロ後方にあり、中隊長は宮崎中尉、小隊長は高橋見習士官、班長は浦山伍長、班付上等兵は高橋上等兵と教えられた。

 私は入隊前より下士官志望を希望していたため、電灯もないこの兵舎での勉強のことで不安を感じました。でも今更悔やんでみても始まらない。与えられた環境の中で唯、一生懸命勉強し頑張って人の上に立ち、下士官となる夢を実現するために、やるしかない、人に負けてはならないと心を新たにし、近くの小川の雪解け水で洗顔、歯磨きし、遠くに見えるソ連の山々を見ながら、朝早くから軍事教育と白樺林の小高い丘で来る日も来る日も厳しい演習の毎日が続いた。

 

私は特に下士官志望兵であるので、小銃の他に仲間の志願兵四人くらいで軽機関銃の教育を受け、一般の兵隊たちより何倍も厳しい教育を受けることになった。やがて雪一色の荒原も春の訪れを向かえ雪解けが始まり、柳と白樺の枝にも青い芽かつき、小鳥のさえずり、日増しに暖かさも増して、夜間演習も行われるようになり、私たちも一層気合が入り、ソ連軍を意識しながら毎日の厳しい訓練を積み重ねる日々が続いた。それから数ヵ月後、終戦になるとも知らずに・・・・

 私たちを乗せた軍用列車は軍用資材の輸送列車が優先しているので、その合間に走っているのでかなりの時間がかかり、約4日ほどかかり本州最南端、下関駅に到着しました。

 いよいよ夢の海峡関門トンネルを通過することになぜか私は心が躍り、最初で最後のこのトンネルが海の底をどの位の時間で走るのか時計で測って見たくなりました。下関駅を発車、列車の中から外の様子は見ることは出来ないが列車は少しずつ下り勾配に向かって進んでいることがわかりました。暫くして車内の音が変わりトンネルに入ったのでジッっと時計を見ていると丁度五分列車は、トンネルを潜り抜け門司駅にさしかかっていました。

やがて最終駅博多駅の引込み線ホームに到着したのは、弘前駅をたって六日目の夕方。この日はちょうど土砂降りの雨、全員下車して雨降りの中、博多劇場に仮宿泊することになりましたが、この時博多では、伝染病のチフスが発生、兵全員予防接種を受けることになりましたが、余り大きくもないこの劇場に約八百名の兵隊が押し込まれので身動きできないばかりか、大雨に濡れた被服のまま折り重なっての状況の中での予防接種は大混乱でした。あのときの劇場の中の様子は五十年以上経つ今でもハッキリと記憶に残っています。

でもその晩は祖国日本の最後の晩、祖国の土を二度と踏むことはないと誰もがかみ締めているようでした。

 

 翌朝早朝、昨夜の雨も上がり、東の空がうっすらとさして来たころ劇場を後に、隊列を

組んで近くの博多港へ行進して、すでに入港していた輸送船(貨物船を改造した船)の船倉に

詰め込むように入船させられました。この時はすでにアメリカの潜水艦が日本海に入っているとの情報もあり、この輸送船はかなり危険な輸送状況だったらしい。輸送船上空には数機の偵察機が低空飛行で輸送船の上空を旋回警備していました。乗船と同時に救命胴衣が各人に配られ緊迫した雰囲気が漂っていました。

                    続く


また

命令により、会話も最低必要限に禁じられておりました。しかし車内では小声が集まり、雑音が一杯でした。乗車しても中々出発しません。乗車後20分ころたったころだろうか、一人の駅員が私たちの乗っている列車に入ってきました。その人は私の席のところに近づくとニコニコしながら、立ち止まり私に声を掛けてきたのです。びっくりしてその人の顔をみるとなんと、入隊前にお世話になった石井助役さんでした。

列車の中には憲兵がいなかったので、石井助役さんからかなりの情報を聞くことができました。石井さんの話を総合すると次のような内容でした。今日、父や母とおじさんが私に会うことが出来たのは、私が昨日営内から道路脇に投げ込んだ名刺がひの日の夕方、運よく石井さんの許に届いたので石井さんはすぐ職権を利用して浪岡まで行ってその晩は私の

家に泊まって翌朝、普通の人では乗車券を買えないので、また職権を利用して乗車券を手に入れて、三人を連れてきたとの聞いて、また私は唯々頭を下げてお礼を言いました。

 そしてこの列車は青森を経由して東北線を南下し、北九州まで行って、九州の港から朝鮮の釜山に上陸、行き先は行き先は満州と耳元で小さな声で聞かされた。石井助役さんには唯々感謝の気持ちで一杯でした。

 夕暮れ時、列車は静かに弘前駅ホームを離れました。乗車してからは特に警戒は厳しくなく運良く小包を受け取った人は開き、近くにの席にいる人たちに食物を分け与えて一時の旅行気分でした。まもなく私のふるさと浪岡駅が近づいてくるとやはり人目見たくてたまりませんでした。こっそりと列車の、よろい戸を少し開けて見ると雪に埋もれた駅はひっそりとして人影もなく、一週間前の歓呼の声がこだました、駅とは思えぬ程静まりかえっていました。私は心の中で家に残っている弟妹のことを思い浮かべサヨウナラと口には出せない何とも寂しい気持ちで、浪岡駅を通過しました。

 青森駅には暗くなってから着きました。人目があまりない引込み線のホームに停車して

一晩このホームで過ごし翌朝暗い内に発車し東北本線を南下しました。途中停車するときはやはり、人目のない引き込み線に停まり、停車時間が長いときは運動のため列車から降りて軽い運動をしました。          続く