いよいよ、出発の日である。天気はうす曇、ハッキリした行き先は知らされていない。

噂では、満州らしいと囁かれていた。昼食後、全新兵約八百名位は全員営庭に集められた。

営庭に整列、留守隊長らしき人より出発に際しての訓示があり、続いて輸送指揮官より輸送中の細々な注意が伝達された。伝達終了後まもなく進軍ラッパが高々と鳴り響いた。これと合わせたかのように、営門より堂々の行進が開始された。

 街に出るのは一週間ぶりであった。沿道の両側には、見物人に交えて多くの家族(面会)が、いまか今かと待ちわびていた。しかし出発日時は、我々には硬く口止めされていたはずなのに、この人だかりには“何だ”唖然としました。秘密ほど漏れやいものだと実感した場面でもあった。道路の両側には憲兵が腕章を付けて目を光らせ、隊列に面会人等が近づけないよう厳重な警備が敷かれていた。

 私は、昨晩の名刺が果たして、実家に届いたか不安でした。無理だろうと半場諦めていたが、今日は二度と生きては帰れない、故郷と別れる最後の日。出来るものならもう一度

一目、家族と合いたいと思う気持ちは皆同じだった。

 沿道の人波は、兵隊たちの進む方向と同じ方向に進み、皆肉親を探すのに必死のようでした。やっと探し当て隊列に近ずこうとすると、憲兵がやってきて阻止しようとするので

中々近づけません。持ってきた小包を渡して一言話をしようにも至難な状況だった。

 営門を出て、15分位たったころ、行進方向約10メートル位先左側に自分の叔父らし

き人が私に手を振っている姿が目に止まりました。まさかとは思いながらも行進を続けて

いると、そこにはやはり叔父が立っていました。私の叔父は、支那事変依頼二回も召集され、外地に転戦した経験を持ち軍隊のことは良く知っている人でした。警護の隙をついて

私にすばやく小包を渡して、父や母が駅前で待っていることを囁きながら知らせてくれました。私はうなづきながら、受け取った小さな包みを自嚢(カバン)の中に入れ、何くわ

ぬ顔で、行進を続けました。その後叔父は、駅までの道のりを私の側を離れることなく付いて来てくれました。

 駅に着くと、駅前(弘前)広場に各隊毎に整列し、あまり広くはなかった広場は我々兵隊で埋め尽くされました。更にそれを囲むように回りには面会人たちも集まっていた。

さらに広場には憲兵の分中隊詰所もあり、憲兵隊もまたかなりの人員を増員し、面会人と私たちとの接触を厳しく監視していたので異様な雰囲気につつまれていました。

 私は隊列の後方に並んでいましたので、広場西側の民家の近くにいました。私は

父や母がどこに居るのか、辺りをそれとなしに目をくばったが見つけることが出来ません。

間もなくして、後ろから叔父が声をかけて来ました。振り返って見ると父と母が笑顔ですぐ近くに立っていました。父と母は私に何か話しかけているようですが、私には良く聞き取れません。でもその姿を見た私には、これが父と母の姿を見るのが最後になるんだと思ったら、急に胸にせまるものを押さえつけることが出来ず、目頭が熱くなり、涙がにじんで来た。その時のことは今でも忘れることは出来ません。

 私は、叔父がうまく段度って、父や母に一目合うことが出来ましたが、殆どの人は面会者が身内に近づこうとしているのを憲兵に見つかったり、分中隊詰所に連行され、その最後の別れを果たせなかった人たちでした。今、戦場へ出発する息子に、そして兄弟に肉親

が一言、別れの言葉をかけようと必死になっているのに、肉親が強引に詰所へ連行されていかれる様を見ながら、兵隊たちは無念な思いを残したまま、列車に乗り込みました。

 我々が指定された列車に乗車したのは、夕方近くでした。乗車はしたものの、列車の窓

“鎧戸”(板戸)は固く閉ざされ、外は全く見えないように、また外から中の様子が全く見えないようになっており、回りの状況を視認するには唯一室内灯だけが頼りでした。 続く


これは私の父、兼平喜太郎(大正13年生まれ、享年83歳)が青春時代に体験した戦争体験記です。経験した一部しか記録されていませんけれど、この場を借りて生きた証として公表したいと思います。よければ読んでみてください。



父の戦争体験記


父の戦争体験記







昭和20年2月24日、その時の私はまだ20歳の春のことでした。この日、私は多くの村人達の歓呼の声(軍歌)に送られて国鉄浪岡駅に向かった。駅に着いてみると、駅には私のほかに三名位の入隊兵も来ていて、出征を見送りに来てくれた人たちで、ごった返ししていた。皆、別れの挨拶を声高々に演説(士気高揚)していた。しかし列車到着まではまだ時間があり、肉親との辛い別れにじっと、涙をこらえていた時間でもあった。

この時代、20歳になったばかりの我々も、見送りの群衆には宿敵、米英を殲滅し東洋平和のため、命を捧げる英雄扱いだった。また私もその中の一人であった。

列車到着前から、駅の改札口は開放され何百人もの見送人でホームも溢れかえっていた。その中で各々の神社から持ち出した太鼓を叩き軍歌を合唱しながら、万歳三唱。まるでお祭り騒ぎであった。やがて列車が到着するとわれわれ出征兵は最後の別れの握手を交わしながら列車に乗り込み、窓から上半身を乗り出し手を振った。走り出した列車からは長いホームは日の丸一色となっていた。

出発し涙も乾かないうちに間もなく、列車は弘前駅に到着。その日の夜、私は親戚の家に一泊お世話になり、翌25日弘前第八師団の営門をくぐった。案内され兵舎に入ると古兵たちは、以外にも親切で噂ほど厳しくはなかった。このとき、星一つだが、格好だけは立派な兵隊になったと思ったものでした。

翌26日、朝起床ラッパの音で起き、いよいよ軍隊生活のー歩が始まった。とはいっても、行き先はまだわからないが、外地に出発するための準備がおもな作業であった。まず

頭髪をハサミで少し切り取り、手指の爪も若干ハサミで切り取り、さらに写真を一枚とる。これらを渡された封筒に名前を書き中に入れる作業からであった。この時に、係りの兵隊からは、これは貴様らがやがて戦場にいって、いずれ天皇陛下の恩為に命を奉げた時に、貴様らの家族に渡されるので安心して、お国のために頑張るんだぞといわれた。また準備物として渡されたものは、携行食料の乾パン4袋、竹の水筒、木製の弁当箱だけ、しかし被服と靴だけは立派なものが配布になった。よって渡された持ち物は服装にまったく似合わないものばかりであった。(この時点で兵器は何も渡されなかった)でも皆、元気一杯ではりきっていたものでした。

 入隊後3日目頃だった思うが、だれからとも無く外地への出発は3月1日だという噂が

ながれ始めました。この噂を聞いて、だとすればこれで本当の最後の別れになる。出来れば出発前に本当の最後の別れをしたい、誰もがそう思ったはず。しかし肉親との面会は固く禁止されていました。それはスパイに情報がもれ海上輸送のとき潜水艦または、爆撃機によって撃沈させられる恐れがあるからだと聞かされていた。とは言っても一部の兵隊は別室で面会が許されていたようだっだ。その人たちは将校、下士官などに親戚または知人、など知っている人がいて密かに便宜をしてもらっているのである。私もなんとか実家に連絡とりたいと考えました。その日の夕方頃、正式に出発は3月1日と命令がでました。

 翌日昼近く、兵舎をでて金網ごしに町側の道路を見るとかなりの面会人と思われる人たちが右往左往しているのが目にはいりました。私はどうして、この人たちは固く禁じられている情報どう知ってこのように面会に来ていたのかまったく理解できませんでした。私はこのままではあと2日後に迫った出発に肉親と会わずに戦地にいってしまうのかと内心あせっていました。もう一刻の猶予もない何とかしなければ・・・とそのとき、塀の近くに浪岡の本町に住む平井さんという今回私と一緒に入隊した人の家族の姿が目に入ってきました。辺りの状況は以前厳しい状況でしたが、一瞬をつき私は、軍服のポケットから一枚の名刺を取り出し足元にあった雪にその名刺と一緒にまるめ、雪だんごを作りすぐさま道路上に投げ込みました。

 この名刺は、入隊前日一泊させていただいた親戚(遠縁)の石井さんという当時、弘前駅の助役をしていた人の名刺でした。石井さんにその時、何かのとき役に立つかもしれないのでと言っていただいたものです。連絡をとらなければと悩んでいたときに事前にこの名刺の表には、この名刺を拾った方は 弘前駅の助役へ渡してください。また裏には出発日時を記入しておいたものです。

 その雪だんごを拾ってくれたのは、見知らぬ人でしたが、その雪だんごから少しははみ出した名刺を確認するとニッコリ笑って手を上げてくれました。このときには神にもすがる思いでした。本当にこの情報が家族の元へ届けられるものなのか疑心暗鬼で、また仮に家族の元にこの情報が伝わったとしても戦時下のなか、まだ当時は切符自体なかなか手に入らない時代でしたし、村には自動車も一台もない時代でしたので、家族がこの弘前まで赴くこと自体が難しく、期待半分 半ばあきらめの気持ちでもありました。

                   

                           続く