※追記

 

大事な事なので最初に書いておきます。

「ゲゲゲの謎は矛盾だらけ」にも書きましたが、
原作および今までのアニメにおいて、ミイラになる前の目玉親父や昔の名前設定、

若い頃の話が描かれた事は一度たりとてありません。

 

原作者の水木先生は、ミイラになる前の目玉親父の絵を1枚も残していません。

現状、そういった遺稿は1枚も発見されていません。

 

「じゃあゲゲ郎ってなんなんだよ」と言われそうですが

あれは現水木プロ社長と、3人の水木先生に何も関係のない赤の他人のアニメスタッフが勝手に考えたものです。

 

たしかに現水木プロ社長は水木先生の親族ですが親は親、子供は子供、関係ありません。

 

 

さて、私は劇場で「ゲゲゲの謎」を見てる最中
「この男性が目玉親父の過去だと思わせておいて『実は別人でした』という高度な叙述トリックの話なのか?」
と思えて仕方ありませんでした。

 

なぜそう思ったかというと、ゲゲ郎には「姿形は違えどやっぱり目玉親父だな」と思える要素や描写がいっさいなかったからです。

 

 

 

〇原作無視のぼっち設定


映画を見ていて、私にはゲゲ郎が目玉親父だとはとうてい思えませんでした。

見た目は関係ありません。
中身が別人すぎるからです。

 

ゲゲ郎は幼い頃からずっと孤独だったという設定でした。

しかし目玉親父はその真反対、その回のゲスト妖怪に必ずと言っていいほど「久しぶりだな」と言われるほどに顔が広いコミュ強オバケです。
その人脈は海や空より広く、地獄の閻魔様はもちろん、原作では悪魔の友達までいます。
助っ人が必要な時は遠方の妖怪に声をかけてくれます。
暴れる妖怪の説得もお手の物です。

しかし「ゲゲゲの謎」では単にねずみと河童と知り合いだった程度にしか感じませんでした。

5期の火車はかつてグレていたのを目玉親父に成敗され、以降は目玉親父に頭が上がらなくなり、まじめに働くようになりました。
原作および今までのアニメの火車の話を過去エピソードとして織り込み、かつアレンジしているのがひじょうに面白いですし、なにより目玉親父の甲斐性が描かれていて今でもお気に入りのエピソードの1つです。

そんな人脈も経験も知識も豊富なコミュ強オバケな目玉親父の幼少期がなんとぼっち陰キャだったと、自分が6期の過去だと思い込んでいる「ゲゲゲの謎」さんは主張します。


「若い頃はコミュ障でも年を取ってコミュ強になることもあるだろう。細かい事を気にするな」

とおっしゃる方もいるかもしれません。

 

しかし話はそんな単純ではありません。

ゲゲ郎の過去にはもっと大きな矛盾があります。

 

 

〇虫も小動物もいない森?

 

 

 

幼いゲゲ郎は森のような所で一人寂しく暮らしていた描写がありましたが
ここにものすごい違和感がありました。

原作でもたびたび描写されていますが、妖怪にとって名も無き虫けら達はかけがえのない仲間です。

同時に虫や小動物達は強力な味方でもあります。

鬼太郎には幼い頃から虫やオバケ、カラスや小動物の仲間がたくさんいます。
ゲゲ郎が森に棲んでいたなら虫達などの仲間になってくれる生き物がたくさんいるはずです。
森に棲んでいて孤独になるはずがありません。

虫だけではありません。
オバケだって森の中にたくさんいたはずでしょう。
6期では人間の目に見えない霊や妖怪はそこらにたくさんいると1話で描かれています。

「見えんけれどもおるんだよ」の歌の通りです。

「ゲゲゲの謎」の世界ではそうした小動物や虫やカラス、見えないオバケたちの存在が、すっぽり抜け落ちているのです。

だからおかしい。

違和感しかない。

そもそも「ゲゲゲの鬼太郎」の「ゲゲゲ」という二つ名の由来は、水木先生の子供の時のあだ名「ゲゲ」と、「ゲッゲッゲッ」という虫の歌声からきているのです。
鬼太郎を称え、時に協力してくれる、名も無き虫けら達の声。
「カランコロンの歌」の歌詞を見れば一目瞭然です。

この映画ではそんな虫や小動物の活躍はまったくありません。
虫達を出さずに「カランコロンの歌」を流さないでほしい。


〇先祖のことは誰から聞いたの?


目玉親父はピンチになるとよくご先祖様や一族の事を言います。
原作「吸血鬼エリート」では鬼太郎が溶かされて骨だけになると「我々の血統は絶滅してしまう」と小さな体で必死で動きまわり必死で息子を助けました。

(後述しますが、骨だけになっても助かる種族なんです、幽霊族は。)

また原作および6期の妖怪大戦争では我が子の事、一族が滅ぶことに対し思わず落涙、その涙がちゃんちゃんこに触れた途端奇跡を起こし、ご先祖様を燃え上がらせます。


このことから私は、目玉親父自身も肉親か誰かに愛情深く育てられ、一族の誇りや歴史、深い知識を教え込まれたのだと思っていました。
もちろんこれもあくまで1ファンの妄想に過ぎません。
原作では目玉親父の過去に関しては一切描かれていませんし、そういう事が書かれた水木先生のメモや遺稿も現時点で見つかっていません。
目玉親父の過去や幽霊族の詳しい歴史など原作に書かれていない部分は、みんなそれぞれ様々な空想を楽しんでいたと思います。


ゲゲ郎が孤独だったのならあの豊富な知識や経験や人脈、先祖の事は誰から聞いたんですか?
奥さんですか?
じゃあ奥さんはどうやって育って、誰からルーツを聞いたのですか?
そもそも同胞達があれだけ生き残っていたのに、なぜゲゲ郎夫妻だけ同胞達から離れて何も知らず暮らしていたんですか?
ゲゲ郎と妻の両親はどうしたんですか?

たしかに原作の幽霊族設定もかなり振れ幅が大きいです。

そういえば鬼太郎親子は幽霊族の皇族の末裔なんて設定もありました。

皇族の末裔様がなんでぼっちで放り出されてるんですか?

そもそもねずみ男はなぜあの村で働いていたんですか?

おかしいことばっかりです。


この映画、ほんとうに考えて作ったんですか?


〇妻を10年探している男の行動じゃない




映画の序盤、私は「この人、呑気に風呂入ったり知らない人と酒盛りしたりして、本当に行方不明の妻が心配なのか?」と疑問に感じました。
まさか温泉だけで親父らしさを表現したつもりでしょうか?
「ゲゲゲの謎」制作陣の中では親父=風呂しかないんですか?

映画を見たあとで、妻が行方不明になって10年も探していたという設定を聞いて呆れかえりました。
あんなのんびりが10年も愛妻を探していた男の行動でしょうか。

もし水木青年や鬼太郎がMの関係者の国のお偉いさんに捕まっても、ゲゲ郎なら呑気に風呂に入ったり旅先で出会った別の誰かと呑気に酒盛りして水木青年を探すのに10年かかるんだろうなと思いました。



〇目玉親父は子供を見捨てないが、ゲゲ郎は見捨てる



そもそも目玉親父って、どういうキャラでしょうか。
我が子を残して死ぬに死にきれず、目に意識を移したという子を思う親の心が具現化したような設定のキャラです。

 

2期では「まぼろしの汽車」を使うと寿命が50年縮むという設定でしたが、

にもかかわらず親父は我が子の為に「まぼろしの汽車」を召喚しました。


2003年に水木先生生誕80周年を記念して制作されたゲーム「ゲゲゲの鬼太郎 異聞妖怪奇譚」では、鬼太郎が敵の策略で周囲の信頼を失い、敵に捕らえられるルートがあります。
そこでも目玉親父は我が身を省みず我が子の為に捨て身の行動をとります。
あの健気さには本当に泣けました。

4期の映画「大海獣」の目玉親父は知識、人脈、行動力をフルに発揮し、仲間達の司令塔となりあらゆる方法で息子を救うために奮闘します。
そして敵だと思っていた大海獣の正体が、薬で姿を変えられた我が子だと知った途端ショックを受けて、男泣きに泣いたのです。
なんて愛情深い父親でしょう。
すべてのアニメシリーズで、その愛情深さが描かれてきました。

そんな目玉親父が10年も妻を探せないはずがありません。

さらに目玉親父なら性的虐待を受けているかわいそうな子供に罪を重ねさせて見殺しにするなんて真似は絶対しません。



たとえ村の子供達がM制作の手伝いをさせられていたとしても、子供たちだけはぜったいに助けています。
子供もあくどい共犯だという意見もありますが手伝わされていたのは国家犯罪です。

それは通りません。

そしてゲゲ郎が本当に親父ならトキヤ少年を70年も忘れるなんてことは絶対にしません。
ラスボス戦でトキヤ少年が地獄に送られた事(※1)は知っていたはずなのに、なぜそのあと70年も何も対処をしなかったのでしょう。

 

※1 よく考えたらこの件も説明不足で意味不明です。ラスボスは人間の身で地獄流しの術でも会得していたんでしょうか?

 


私が子供の頃から目玉親父を好きなのは、もちろんそのゆるキャラ的なかわいらしい見た目もありますが、それ以上に健気さや頼りがい、身内思いや博識さ、顔の広さ、茶目っ気など内面の魅力に惹かれたからです。


ゲゲ郎にはそうした内面の魅力が一切ありませんし
あったとしても少なくとも「ゲゲゲの謎」でそれが表現されていたとは思えません。






なお、私は先日ルッキズムを批判しましたし、見た目に関しては本当にどうでもいいと思っているのですが、あえて見た目に言及するなら。

原作のミイラ姿の目玉親父は見れば分かる通り、もとはかなりガタイのいい体格です。(※2)
小さくなっても司令塔ポジションにいますし、元の目玉親父はリーダーシップ溢れる大男だったのではないでしょうか。

幼少期の水木先生はいわゆる「ガキ大将」でした。
「ガキ大将」なんて言葉、今ではすっかり耳にしなくなったので馴染みの無い方もいらっしゃると思います。

いまだとドラえもんのジャイアンの印象が強いですが、なにもガキ大将=乱暴な悪ガキというだけではありません。

昭和の、まだ地域の人々や子供達の結びつきが強かった時代、そうした子供達をまとめあげ、一緒に遊ぶリーダー格でもあったのです。

小さい子供たちはそうした頼れるお兄ちゃん(ガキ大将は往々にして男の子でした)の背中を見ながら遊んでもらって成長していくのです。

それが昔の子供の遊び方でした。

当然そういう子の周りには、いつも多くの友達が集まっていました。

 


そして鬼太郎もいわば「妖怪ガキ大将」と言えます。

鬼太郎の周りには常に虫や動物、妖怪の仲間がたくさんいますし、ポスト活動に協力してくれる妖怪仲間が全国にたくさんいます。
水木先生が鬼太郎や目玉親父に自分自身を重ねたとすればそういうところでしょう。

今さら赤の他人が自身を重ねて勝手にぼっち陰キャ設定にしても滑稽でしかありません。


※2 原作の前日譚を騙るために原作ミイラの目玉親父すらもゲゲ郎という事にしてしまったのもこの映画らしい滑稽な失敗だったなと思います。

そのせいで怨念を浴びて逆にガタイが良くなるというおかしなことになってしまったのが本当にこの映画らしいです。バカバカしい。


〇幽霊族の意図的な弱体化


「ゲゲゲの謎」における妖怪や幽霊族は意図的に大幅な弱体化がされています。

制作陣はどんだけ幽霊族のパラメータ下げたんだってぐらいナーフされています。
「ゲゲゲの謎」において妖怪は無力な動物、幽霊族はSFのミュータントぐらいの存在になっています。

 

前述しましたが「ゲゲゲの謎」はほんとうに虫や動物達の存在を忘れています。

捕まっていた幽霊族達にだってそれぞれ虫・動物情報網やオバケ仲間がいた筈です。

いくら結界やお札で封じられていても、動物たちに協力してもらうとか色々できたはずです。

本来、それぐらいの事ができる一族なのは、原作で何度も何度も書かれています。

あの桜が何の特級呪物か映画で描かれてないのでさっぱりわかりませんが、原作で強敵・吸血木をも枯らせた根切り虫達がいれば何とかなったんじゃないでしょうか。

 

 

なにせたったひとつの骸骨を壊せば終わるようなスケールのちっさい話だったんです。

そこらの小動物がDQN家の屋敷に忍び込んで骸骨を盗み出して壊せば済んだ話でしょう。

あの骸骨自体に結界でも張ってあるかと思ったら素人でもあっさり壊れるようなしょぼいシロモノでしたし。

幽霊族は、そんな大事なものを刃物持ってる人の前に出すようなDQNに負けたバカな連中だと、制作陣はそう言いたいのでしょうか。

 

 

何十年も時間があったんだし、まぼろしの汽車などたくさんチート術があったはずです。

6期1話の「のびあがり」を見返したら、血を吸われた幽霊族たちもみんな実になって復活できたんじゃないかと思えてなりません。
事件後、落ち着いたら村に戻ってちゃんちゃんこで同胞の怨念を回収して恐山に連れて行ったらみんな完全復活してたんじゃないでしょうか。

 


あれだけ幽霊族が揃っていれば、人間程度にやられてる筈がないんです。
あれだけ同胞がいたのに妊婦が鬼太郎母しかいなかったのも不自然です。

女性や夫婦はいなかったのでしょうか。

 


半世紀もしてやっと出番が来たのに、ただの背景、ラストアイテムを生む機械、エキストラ死体になるために出されたご先祖様(同胞)が不憫でなりません。

 

 

ゲゲ郎が本当に目玉親父だとしても、こっちもひどく弱体化されています。

きっとさぞかし格好良い登場シーンが用意してあるかと思いきやしょっぱな捕囚の身。

初登場で捕まってるとかボー〇ボかよ。


作中のゲゲ郎はだいたい呑気に酒盛りしてるか捕まってるかボコられてます。

戦闘シーンありましたが子供だましのうえすぐ終わり。

個人的にはせっかくの目玉親父の過去なので、戦闘シーンより推理や智謀を巡らせているシーンが見たかったです。

 

ゲゲ郎が銭ゲバ家に捕まって腕を切られそうになったシーンは本当に白けました。
(なにびびってんだろ。妖怪なら腕ぐらい切られてもどうってことないでしょ。この人本当に目玉親父?)と思ってしまいました。
現に原作鬼太郎はドロドロに溶けようがミンチ肉になろうが骨になろうが復活します。

 

 

「目玉親父の若い頃」が売りの映画なのに、全体の尺に比べて活躍シーンが異様に少なく感じました。
実際「目玉の時の方が強かったんじゃないの?」という感想を見かけた事があります。

私もそう思います。



血の池で妻を探すシーンも
(あんたリモコン下駄とか一通りの術使えるのになんで妖怪アンテナ使えないの? あんた本当に目玉親父なの?

と白けてしまいました。
そりゃラスボスもあきれてため息つきますよ。
私も同じ心境でしたもの。

 


なので、おそらく本作最大の見せ場であろう夫婦再会シーンも心底白けるだけでした。
原作母の造形が醜いと言われた事もあって私は映画館で死んだ目してました。

 


そういえば私は初日朝イチで劇場に見に行きましたが、他の観客は年配の夫婦らしき二人と男女が数人で、帰る時みんな無言でした。

内心どう思っておられたかはわかりませんが…



なんでここまで水木先生の大事な幽霊族を弱体化させたのでしょう。
「ゲゲゲの謎」はオリキャラとスタッフ達の大事なオリジナルストーリーを見せる話なので、原作キャラなど踏み台に過ぎませんから、目立ってはいけなかったのでしょうか。

苦言を呈する原作者もすでに他界していますし、やりたい放題です。



ちなみに私の愚痴を聞いた3期世代の友人は
「はぁ!? あの鬼太郎の先祖が人間に負けるわけないじゃん」
と驚いていました。
たぶんこれが世間一般の反応だと思います。

特に3期世代はなおさらでしょう。


人間のおぞましさを描くために妖怪を犠牲にするなら他の妖怪にしてほしかった。

鬼道衆なら人魚がいたじゃないですか。
それを親父がかっこよく助け、人間にお灸をすえる話ではだめだったのでしょうか。
それなら数多いアラも目をつぶれたのに。

 

 

〇追記

 

どうやら「ゲゲゲの謎」のスタッフが「弱者が一生懸命頑張る様」がお好きなようで、こういう話になったようです。

 

だから目玉親父や幽霊族を弱者にしたと。

 

幽霊族の歴史を改悪して水木先生の原作をブルトーザーでぶち壊したと。

 

原作の鬼太郎の母のビジュアルを「ダサい」と笑って勝手に変えたと。

 

なるほど。

よくわかりました。

 

じゃあオリジナル話、もしくはオリキャラでやってください。

もしくは「もとから弱者ががんばる作品」でやってください。

どうしてもその趣味を水木先生の作品でやりたいなら同人誌かpixivか中学生のノートの切れ端でやってください。

 

いくら弱者が好きだからと言って、その自分の趣味に強いヒーローとして半世紀も歴史を重ねてきたまったく別の作品を無理やり当て嵌めるとは幼い。

おこがましい。

 

私は、作中の薄っぺらい田舎DQNなんかよりも、この映画のスタッフさん達の方がよっぽど怖いです。

むろん、それを称賛した現状水木プロも。

 

 

 

〇「日本爆裂」もナーフだらけ

 

 

「日本爆裂」も同じです。

本編よりキャラが弱い気がしましたし、どう考えても「烈闘星覇」というラストアイテムがなければクリア不可能という風に設定してあります。

「ゲゲゲの謎」もラストアイテム「ちゃんちゃんこ」を取得しないと詰みという設定です。

 

 

「日本爆裂」のラスボスであるヤトノカミはいちおう日本神話に元ネタがあるにはありますが「日本爆裂」ではほぼ監督のオリキャラ化しているように見えました。

だいたいヤトノカミなんて水木先生の漫画にも出てきません。

5期は確かに原作に出てこない妖怪を扱う事が多いので予想のつかない話や展開で楽しませてくれましたが、ヤトノカミに関しては「な、こいつ強いだろ?」という思い透けて見えてどうも白けるだけでした。

子供を苦しめて利用するところも「ゲゲゲの謎」のラスボスと同じです。

けっきょくのところこの監督がいちばん大事なのは最強設定したご自身のオリキャラと毒親や虐待などを得意とする自分の持ち味を見せる事であって、原作や原作キャラは踏み台でしかないのだなあと悲しくなります。

せめて別の監督が担当してくれれば…と残念極まりないです。

 

つくづく、この監督は原作付アニメ、大衆向に向いているとは思えません。

オリジナルでイヤミス等の作品をやればものすごく化ける人だと思います。

絶対にそっちの方が好きな人には大うけすると思うんですが…

 



〇改悪された幽霊族の末路があまりにみみっちすぎる件


「ゲゲゲの鬼太郎」は半世紀の間6回もアニメ化、実写ドラマ化2回、実写映画2回、オリジナルゲーム化1回…そのほか多くのメディアでリメイクされてきました。

コミカライズやパチスロアニメ、地方でしか放映されなかったどの期でもない映画化なんかも入れたらもう数えきれないほどです。
それだけ作品群が広がった中でも幽霊族の歴史や目玉親父の過去にまつわる大幅な変更はかつて一切なかったのです。
5期では鬼太郎の過去や幽霊族に関してかなり少年漫画的な設定変更はありましたが、原作に影響はありませんでしたし、むしろそれは幽霊族の強さを誇張するものだったので気になりませんでした。



「ゲゲゲの謎」のように幽霊族の歴史を改悪することは

「先人も思いついたかもしれないけどあえてやらなかった」という言葉に尽きるなと思いました。


鬼太郎親子の不死身さを見るかぎり、幽霊族は相当チートな種族だったと推測されます。
仮に「ゲゲゲの謎」が6期とも原作とも関係ないパラレルワールドで(いまからでもそう名言してほしいです)幽霊族が弱い種族だったとしても、映画では妊婦が血を吸われながら飲まず食わずで10年も胎児を隠し続けながら耐えられるほどのポテンシャルを持ってる事が描かれているので、それだけチートな種族であることに変わりはありません。

そんなチート種族も、人類という他種族の繁栄には勝てなかった、というのが原作の設定です。
なんと壮大で考えさせられる話でしょう。



幽霊族を滅ぼしたのは我々人類です。
これは幼い読者にはショックでした。
しかし現実に我々罪深く愚かな人類はこれまでも今も多くの種を滅ぼしてきました。
それだけではなく今も同じ人間同士で差別しあい、争っています。
だからこそ鬼太郎の設定は考えさせられるのです。


私は、幽霊族は長い年月をかけて、少しずつ減っていったと思っていました。
目玉親父の年齢設定が500歳、ねずみ男が300歳です。
人類が誕生したのはおよそ500万年前と言われています。
幽霊族のような長寿の一族が滅ぶには何千か、何万年、あるいはもっと長い年月がかかった事でしょう。


そんな壮大で、考えさせられる話だったのに。

「ゲゲゲの謎」ではたかが数十年程度の間に一部のカッペDQNにボコされて滅んだことになっています。

いつからMを作ってたかはわかりませんが、日清日露の頃からだとしておおよそ1894年~1930年の間だと仮定してもたったの36年程度。
他の幽霊族が耐えきれないはずがありません。

それだけ時間があればその間いくらでも脱出の手段はあったはず。
その間Mのことがゲゲ郎の耳に入ってないのもおかしい。


それにしても、たった36年。

寿命が数百年単位の種族にしてはみみっちすぎる。

 

しかもそれがちっさい村の中だけで完結してしまいました。

水木先生の壮大な話をよくもまあこんなスケールちっさく縮められたもんだなと

逆に感心します。


この映画を見た子供達が
「なーんだ悪いのは一部のDQNで人類関係ないじゃん」
「人間に負けるとか鬼太郎の先祖よっわww」
と思いそうで怖いです。

何度も何度も言いますが「ゲゲゲの謎」なんてヨタ話は原作にも今までのアニメのどこにもありません。

原作者の死後、勝手に捏造されたた妄想です。




〇大傑作「ゲゲゲの鬼太郎 千年呪い歌」(※ネタバレあり)


幽霊族滅亡と鬼道衆という二つの設定をうまく使って感動的に仕上げたのは実写映画「ゲゲゲの鬼太郎 千年呪い歌」だけです。
あれは何度も見返したくなる大傑作です。
「妖怪と人間の共存」という、今では他の妖怪漫画も扱っているもはや珍しくないテーマを、まさかあそこまでまっすぐにぶつけてくるとは思いませんでした。
映画館で見た時は感動のあまり時が止まりました。


ネタバレになるのでぼかして書きますが、
この映画で鬼太郎は初めて幽霊族が人間のせいで滅んだことを知り、
あまりに残酷な真相に失望し戦意を喪失します。
彼を奮い立たせ、また戦う気力を取り戻すきっかけになったもの。
それは仲間達の励ましもありますが、もっとも背中を押したのは、今作に出てくる鬼道衆の末裔の尽力です。
その末裔の必死の行動が再び奇跡を起こす、だいたいこんな話です。

「千年呪い歌」で鬼太郎はぬらりひょんに次のようにタンカを切ります。

「人間は確かにバカだよ。本当に愚かな生き物だ」
「人間がいかに愚かだろうと、それは、お前(ぬらりひょん)に教わることじゃない!」
「気付かなけりゃダメなんだ、人間たちが、自分自身で!」


我々視聴者も心から考えさせられる名言です。

この映画では鬼太郎が復活して再び妖怪と人間との共存のために歩き出すまでをきちんと描いています。
「ゲゲゲの謎」が本来描くべきだったのに横着して視聴者に丸投げしたものを、20年以上前の映画がきちんと描いていたのです。

ウエンツさん版実写鬼太郎の脚本家の方は大の鬼太郎ファンだそうですが「千年呪い歌」を見れば脚本家さんのまっすぐな原作愛がよくわかります。

「ゲゲゲの謎」制作陣は口では水木先生水木先生とおっしゃいますが、作品を見ても原作愛がいっさい伝わってきません。


他作品ですが「ウルトラセブン」の傑作「ノンマルトの使者」「超兵器R1号」「怪獣使いと少年」のように「果たして人類は本当に正しいのか?」という疑問を提唱する作品を一般向、子供向作品でやるのは大変有意義だと考えます。
最近ですと「ウルトラマンブレーザー」の真相も人類の行動の是非を問うものでたいへん面白かったです。

「ゲゲゲの謎」はただの田舎DQNの内ゲバでしかないので、そういう深さがありません。

昨日も書きましたが、あんな極端でリアリティのないキャラの薄っぺらい田舎家族だけで人間の悪を描いている!と言われても「ハァ?どこが?」としか言えません。

 

 

この映画のキャッチコピーは「血が流れている」ですが、この映画のオリキャラは悪人としての血が流れているとは思えません。

みんなNPCです。

たいへん無礼、失礼を承知で書きますが、ゲゲ郎をぼっち設定にした事と言い「ゲゲゲの謎」スタッフはあまり人づきあいをお好みにならない人が多いのかなと思いました。

 



〇国民的作品がひとつなくなった


「ゲゲゲの鬼太郎」は「ウルトラマン」のように人間の是非や自然の大切さ、伝統や見えないものを大事にする心などさまざまな知恵をさずけてくれる素晴らしい作品でした。


しかも10年ごとによみがえることがほぼ約束されているという稀有な作品です。

 

その時代ごとに新たな見た目で生まれ変わり、子供達に大切な事を教えてくれる。
世代を超えたファンを生み出せる稀有な作品だったのに。


今の水木プロは、金の卵のガチョウの童話にしか見えません。
「ゲゲゲの謎」以降は商売のやり方もどんどん阿漕になっており、あまりのきな臭さに見限るファンも増えています。

ねずみコンサルがついてもあそこまでの惨状にはならないでしょう。
親方水木プロの惨状を見ては、7期8期も期待はできません。

東映も同じです。


以前6期スタッフの方が

「水木先生の大事な原作キャラをお預かりしている事を心に刻んで制作しています」

「今後も水木先生の原作を踏襲していきます」

と頼もしい発言をなさっていました。
原作ものの映像化なら原作を踏襲するのは至極当然、真っ当な発言です。

 

 

しかし「ゲゲゲの謎」制作陣にはそんな真っ当な意識はなかったようです。

むしろ原作者がいないから好き放題できると思ってるのは一目瞭然です。
実際、制作陣のお一人はこの映画を利用して個人的にたいそう大儲けされたようですし…

 


もしや「ゲゲゲの謎」制作陣は「踏襲」という言葉を、その漢字の意味する通りに曲解しているのではないでしょうか。


いつか他の真っ当な制作会社があらわれて

水木先生の作品の権利を現状水木プロと東映から買い取って
ふたたび真っ当な鬼太郎作品を世に送り出してくれることを願ってやみません。