今日は重陽の節句ということで

近所にある神社をお参りしました。



素戔嗚尊やオオヒルメノムチが祀られています。



クリスチャンになったはず、ですが

わたしは日本人なので


今までずっとこの神社へ足を運び、




神様

わたしを最善のほうへお導きください。

最善の選択ができますよう、

お導きください。


とだけ、お願いしてきました。



あとはおまかせいたしますという意味です。



どんな方向へいくとしても

そこが最善であり、

何事もいつしか最善へと変わる、と

信じてきました。



回り道しても

いつか自分の身の丈に合うようになる。



「神様、わたしはクリスチャンになろうとしていますけれど。神様はひとつなのではないか、と感じます。神様が出会いをくださり、それが最善の道ならば間違いないと思いますので、またここへ来ます。」と伝えてきました。



そして



昨日の猫の出来事(うちの出窓に、顔を出している猫が見えると言われた話)を、

猫好きな利用者様と雑談しました。



そのかたは、

真剣にふんふんと聴いてくれた後



「その隣の女性、嫌なこと言うわね」 


え、!?



「見えるのかしら」



「あなたね…、しっかりと『もう一匹の猫は死にましたからいません!』と言うのよ!」



意外な言葉でした。



この利用者様も大切な猫を見送っているので、そうか、そうかと聴いてくださるのかと思っていました。



「だってさ、だってさ、どこへも行けないじゃない?縛りつけたらかわいそうだよ。猫は猫たちのところへ行くの。どこへでも行きなさーい、って言わなきゃ。残された猫がいるのにかわいそうよ!」



わたしがくよくよしてるから…

どこへも行かないでまだそばにいるのかな。



「そうよ、しっかりと送り出して!わたしなんか、みーんな横浜に置いてきたわよ!持ってたって仕方ないもの。ご飯だって、作ってもらわなきゃ食べられないの。でもね、こっちへ来て良かった。近所のひとが野菜をたーくさん、持ってきてくれるよ?すごいじゃない?」



悲しみを理解してくださるから、

背中を押して

勇気づけてくださっていると感じました。



優しさですね。




ああ。



何かが変わるわけじゃない。



事情が変わるんですよね。





最近、


家族がいて良かった、という話をよく聞きます。


娘がいて良かった、とか


娘とわたしは尊敬し合っているから
幸せです、とか。



わたしはそんなものは持っていない。


けれど、何かしらは持っているんじゃないかと思うようにしています。


何かを大切に思う気持ちは


わたしだって
持っているんじゃないか、
そう思いたい。



神様、どうかわたしを最善のほうへ


導いてください。


よろしくお願いいたします。




見ていただいてありがとうございます


                            しっぽフリフリ流れ星