最盛期の30年程前は6編成を擁していたJR北海道のリゾート列車でしたが、その末っ子で最後の生き残りであった『ノースレインボーエクスプレス』(NRE)がついに営業運転を終了し、アルファコンチネンタルエクスプレス(アルコン)以来38年に渡って続いてきた北海道におけるジョイフルトレインの歴史がついに終わりを迎えてしまいました。コレも時代の流れなのでしょうか…。正直寂しいと言わざるを得ません。

そこで今回は、JR北海道の技術力を内外に知らしめたリゾート列車を偲びつつ、歴代6編成のウチ、改造車として誕生した3編成を振り返る記事を紹介させて頂きます。一応私は全ての編成に乗車した事がありますが、車両によっては写真素材が乏しいモノもある事をご容赦ください。

 

 

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本題に入る前に、一つお礼をさせてください。

NRE編成ラストラン4月30日に急遽起こした前回のブログですが、5月1日付アメブロ鉄道記事ランキングでなんと1位を獲得する快挙を達成しました。コレもお読みくださいました皆様のお陰です。誠にありがとうございます!

 

 

 

①:アルファコンチネンタルエクスプレス(アルコン)

登場・1985年 引退・1994年

 

1981年の石勝線開業を前後して沿線では大規模なスキーリゾート開発が行われ、占冠村には『アルファリゾート・トマム(関兵精麦系列。現・星野リゾートトマム)』、新得町には狩勝コンチネンタルホテル(現・サホロリゾート)という2つのリゾートホテルが開業し、それらとタイアップして誕生したジョイフルトレイン。

当時はまだ国道274号線や道東自動車道も全通しておらず、沿線のスキー場アクセスは石勝線が担っていましたが、車両は旧い急行型気動車キハ56系(『石勝スキー号』という臨時列車があった)や特急おおぞらといった非日常とは程遠い列車で、北の大地のパウダースノーに憧れて千歳空港へ降り立ったスキーヤーにとっては不評で、その輸送改善が喫緊の課題でありました。

そこで先述の両ホテルは当時の国鉄と協議し、国鉄はキハ56系を改造したジョイフルトレインを製作する代わりにホテル側は座席の8割を団体枠として借り切るという、いわゆる『ギャランティ』方式(※ホテル側とのギャランティ方式によるタイアップは以後のリゾート列車にも続いたが、千歳空港[現・南千歳]~札幌のみ『エアポートシャトルきっぷ』利用で乗れる以外、基本的にはスキー場へ向かう客しか乗れないため、一般客から「なぜ乗せてくれないんだ」という苦情も少なからず寄せられ、1990年12月からはこの方式を廃止し一般客に開放、マルス上に収納しみどりの窓口で切符を買えるようになった)という形で話がまとまって誕生したのが『アルコン』だったのです。

1985年12月に苗穂工場で3両編成が落成、苗穂運転所に配置され、冬季は札幌・千歳空港~新得のスキー列車として活躍、夏季は旅行会社や航空会社とタイアップした『リゾートエクスプレス』の名前で道内各地を廻り、特に1986年6月にはANAスカイホリデーとのタイアップで千歳空港→札幌→深川→留萌→羽幌→幌延→稚内(以上1日目)→名寄→中湧別→網走(以上2日目)という、今はなき羽幌線、名寄本線、湧網線などを通るまさに夢のようなクルーズトレインとして運転された実績もありました。

 

写真(キハ59 1)は1991年1月札幌駅にて撮影。当時は既に後継編成ともいえる『クリスタルエクスプレス・トマムサホロ』が登場した後という事もあり、このシーズンから数年間フラノエクスプレスの増発として活躍していたためヘッドマークも『FURANO EXPRESS』に替わっています。デビュー間もない頃の『スーパーホワイトアロー』785系電車との並び。

 

 

 

『フラノエクスプレス』として、アルコン編成に最初で最後に乗車した時のキハ59 1の客室写真。先頭のハイデッカー構造の展望室側席の指定席を取っていましたが、勿体ない事にカブリツキ席の片側は空席のまま!リクエストして買えば良かった…。この展望室側は座席が回転せず方向固定されているのが特徴で、片側の座席には他の車両の乗客にも前面展望を楽しめるように補助席も用意されていました。

 

 

 

富良野到着後。当時はまだ滝里駅があった頃で、蛇行する空知川を幾度も渡りながら富良野へ至っていました。私が旧線時代に乗車したのもコレが最後となりました。

 

 

 

アルコン編成を語る上で欠かせないのが、このキハ56 213です。

既存編成のままでは好評過ぎて乗客を運びきれない事態となり、キロ26 202をグリーン車時代のまま塗色変更の上増結、さらには簡易ビュフェを備えた正規の改造車キハ59 101を追加改造しても乗り切れない状態が続いたため、苦肉の策として一般のキハ56を1986年12月に塗色だけ変更、車内は従来のBOXシートのまま「とりあえず」アルコン編成に加わっていた事もありました。流石に他の客室との格差が大きすぎるため、後に急行色に戻って普通列車や写真のような宗谷本線急行の増結用として活躍し、後に釧路へ異動し釧網本線列車の増結用として使われました。

 

 

 

しかし急行型キハ56系の改造車である事から老朽化が進み、その後継ともいえる『ノースレインボーエクスプレス』が登場した事から1994年10月にラストランを行い引退、正味9年の活躍に留まりました。翌年廃車後、キハ59 1の前頭部のみ苗穂の北海道鉄道技術館で保存展示され、もう片方の先頭車キハ59 2は千歳市駒里の竹田牧場(石勝線からもわずかに見える)で保存されています。

 

 

 

②:フラノエクスプレス(フラノ)

登場:1986年 引退:1998年

 

『アルコン』の成功に伴い、今度はコクド(西武系)の富良野プリンスホテルとのタイアップで誕生したリゾート列車第2弾。アルコンがキハ56系の改造に対し、コチラは道内定期特急列車から撤退したキハ80系からの改造で、先頭車はアルコン同様前頭部のみハイデッカー、中間車をオールハイデッカー構造とし当初3両で登場、翌夏には半室ラウンジのもう1両が加わった4両編成となりました。

国鉄末期という微妙な時期での改造でしたが、その優れた内外装デザインが評価されて1987年の鉄道友の会ブルーリボン賞という快挙を達成、国鉄時代に製作された車両で最後の受賞であると共に、民営化後初の受賞という栄誉はまさに新生JR北海道を象徴する出来事でした(ちなみに賞の次点となったのは同じ北海道のキハ183系500番台)。その1987年夏季は塗色変更した上で『ANAビッグスニーカートレイン』として、ツアー客用の臨時列車として活躍しました。

私事ではありますが、国鉄時代最後に乗った車両がフラノ編成なのです…(詳細はコチラのブログにて)。

 

 

 

フラノのエンブレム。FISワールドカップの公式マスコットキャラである『Mr.Fu』&『マドモアゼルペッカー』をあしらったデザインで、1枚目(1992年撮影)は『スキートレイン・フラノエクスプレス』と書かれているのに対し、末期は単に『フラノエクスプレス』の表示に変わっています。

あ、1枚目に写っている人物は若かりし頃の私…(汗)。誰に撮ってもらったのか全く憶えていないのです…(謎)。

 

 

 

お次はフラノの客室。キハ84 2の平屋部分。ビデオプロジェクターとスクリーンがあるのがわかります。

 

 

 

同じくキハ84 2のハイデッカー部(展望室)側客室。平屋部との仕切り壁には1987年のブルーリボン賞エンブレムが誇らしげに飾られていました。

 

 

 

コチラは1987年に追加改造されたキハ80 501の客室。2枚目は半室ラウンジ部で、バブル期を象徴するかのように、見るからに豪華なソファーが並んでいます。JR北海道のイメージキャラクターだった中嶋朋子もこのラウンジで企業イメージポスターの撮影が行われた事もありました。

 

 

 

 

フラノも改造車である事が災いし、老朽化には勝てず1998年に函館、釧路、北見、稚内へと向けたラストラン運転を行った後引退、先頭車の1両のみが苗穂に保管されていましたが結局2015年に解体され、北海道鉄道技術館に銘板やエンブレムなどが展示されるのみとなってしまいました…。

 

 

 

 

③:トマムサホロエクスプレス(トマサホ)

登場・1987年 引退・2002年

 

残念ながら、このトマサホも一度しか乗車経験がなく、写真資料が乏しいです。予めご了承ください。

フラノからほぼ1年後に同じくキハ80系から改造されたリゾート編成第3弾で、今回は先頭車をオールハイデッカー構造とし、台枠や足回りなど機器類をタネ車から流用した以外車体は新製、前頭部はフラノに似た構造ながらより立体的となり、洗練されたデザインとなりました。

やはり当初3両で登場、翌1988年には普通客室1両と、リゾート編成では唯一となる全室食堂車(キシ80 501)が加わって5両編成で運用されました。

誕生の経緯として、やはりアルコンだけではスキー客を捌ききれないという人気ぶりに応えたモノで、編成名にもトマムとサホロの両リゾート名が入っています。夏季は『JTBパノラマトレイン』としてツアー客の臨時列車として使用された他、一般の団体臨時列車としても活躍、今はなき深名線、名寄本線などの廃止路線にも入線実績がありました。

特筆すべきなのは、1990年に行われた観光キャンペーン『ふれあいランド四国』とタイアップし、JRジョイフルトレイン旅客全6社のそれぞれ1編成ずつが四国入りする事となり、北海道からはこのトマサホに白羽の矢が立ったのでした。おそらくDMH17系機関搭載車である事が決め手だったのでしょうか。四国島内では初のキハ80系入線、自力走行も行っており、JR旅客全6社のジョイフルトレインが高松駅や松山駅にて一挙に展示された際、他社(※どこのJRかは不明)から「負けた!隣に並べないでくれ」と担当者に言われたという逸話が残っているそうです。それだけにJR北海道の技術力を知らしめる良い機会になった事でしょう…。

スキーブームが去った後の1999年には『マウントレイク』塗装として緑色に装いを改め、函館本線(大沼)や釧網本線(摩周)で活躍、2002年に再びオリジナルの塗装に戻しラストラン運転を行って引退、やはり苗穂で一部車両が保管されていましたが2013年に解体、結局保存される事はありませんでした。車体こそ新製なのだから、九州の『ゆふいんの森』みたいな機関換装などを行えばまだまだ走れたと思うのですが、厳しい自然環境の北海道ではそういうワケにもいかなかったようです。

 

 

 

内装はフラノと似たイメージですが、ダウンライトを用いた照明と、前席にオーディオ&液晶モニターを設けた事が新鮮でした。

私が新得駅から乗車したのが1991年の1月9日でしたが、この時はガラガラだったのにたいしてトマム駅からは若者のスキーヤーがドッと乗り込みほぼ満席になったというのがとても印象に残っています。ちなみに私の指定席は予約時点では満席でしたが、急遽キャンセルが出て無事乗る事ができたのです。しかしコレが最初で最後の乗車になろうとは…。もっと乗っておけば良かったと悔やんでいます。

 

今回はここまで。次回は『ニセコエクスプレス』以降の車両の紹介です。

つづく