たまたま図書館で借りてきた『日本の名随筆全50巻』をかつては拾い読みはしたが、全部読んでみようと随時借りている。その中に「古書」「古本屋」「奇書」というのがあり、古本屋はとっくにリタイヤして、息子も店はやめて、別の仕事をしているいまになり、懐かしく読んでいた。いろんな人が書いている。その中に八木福次郎さんも書かれていて、古書に関するエッセイが載っていた。東京の神保町の古書街で老舗の八木書店の親父さんで、古書界の重鎮だ。12年前に96歳で逝去され、名だたる人が参列、紀田順一郎さんや作家の出久根達郎さんらが悼辞を読んだ。八木さんが日本古書通信という新聞というより古書界の会報のような情報誌を毎月出されていた。わたしは、平成元年から、古書目録を隔月で出すようになり、その顧客集めのために、名簿が欲しいので、古書通信に目玉広告を毎月出した。小さな記事中の囲み広告で五千円くらいであったと思う。そこに第二号特集なになにと無料で送りますと書いたら、全国から古書マニアの人がハガキで、古書目録送れと殺到した。名簿はすぐに千人を越える。それがわたしの家計を助けた。一人で、仕入れた古書データをワープロで打ち込み、版下を作り、軽印刷機も店にあったので、それで印刷すると、帳合とホチキス止めも自分でして、封筒の宛名ラベルも自分で貼り、目録発送した。店は暇なので、店番しながらできた。封筒詰め作業は小学生の息子たち総動員で、アイスクリームのご褒美で釣ってやらせた。

 毎度、目録にはコラム欄を書いた。日本古書通信と彷書月刊にも古書目録を送り、それが彷書月刊に面白い古書目録として取り上げられた。名前がいいと。りんご古書市場とは青森らしい。店名が林語堂で、地方色も出した。彷書月刊にも広告を載せたり、目録を掲載したりした。編集長の田村治芳さんからは、よく青森の店まで電話をいただき、話したことがあるが、一度もお会いしなかった。そのうちインターネットでも目録を見られるようにして、ホームページも作ると、そこに毎日更新で古本屋店番日記を連載するようになる。それが面白いと言われて、その気になると、目録のお客で、大阪の高橋輝次さんから連絡があり、それを本にしませんかと、編集者で古書について造詣の深い自著も多数ある方で、わたしなんかでいいのかと、それでも全国出版では初めてで怖かったが、お願いした。それが『古本迷宮』という本になる。

 それを出したら、次に八木福次郎さんから、毛筆のお手紙をいただいた。それには日本古書通信に連載依頼の丁寧な内容で、ええ? 日本古書通信のように敷居の高い、硬派の誌面に、わたしのような場違いな田舎の古本屋ごときが書いていいの? と迷ったが、それも何かの縁かと、快諾する旨の手紙を送り、それから三回に渡って、連載した原稿を送る。

 だけど、柴田宵曲さんなど、日本の古書界でも大変な人たちが書かれている誌面に、わたしのような毛色の違ったくだらない文はどうなのかと違和感も感じていた。と、やはり三回目で打ち切りになる。やはりそうだろう。あんなふざけた文できっと怒る人もいる。それがクレームとして、あんな文を載せるなと、電話と手紙が殺到したのだろう。三号で潰されたカストリ文になった。そのことで、懇意にしていたサッポロ堂の親父さんから電話が来て、面白かったのに、どうしたの? と連絡してきた。八木さんの息子さんもきっと、誌面を新しく変えたいと望んでいて、刷新のために硬派に軟派も入れてみたいとわたしに依頼してきたのだろうと推察したと話した。それが、学術的な資料としての古書通信には軽く、邪魔になものになる。

 

 いま、古書の本を読んで、懐かしい人たちの名前が出てきている。編集工学で総理にも推薦図書を選んだ松岡正剛さんもこの夏に亡くなられたが、うちの古書目録をお送りしてご注文もいただいた。紀田さんや出久根さんからもご注文をいただき、出久根さんからは手紙もいただく。リンボウ先生こと林望さんや庄司浅水や作家の長部さんなど、毎度お世話になったのも、古書通信のお蔭で、なんとか三十数年古本屋をやってこれた。いまは離れて、無縁の世界にいるが、懐かしくただ思い出される。