宮園真木さんが亡くなったと聴いたのは今年の正月だったか。彼は昨年の11月に亡くなっていた。それを聴いたのは、友人からであった。前から癌とは聴いていた。詩人の宮園さんとはわたしはあまり親しくはないが、彼の奥様が確か、わたしのペンの仲間の先輩の奥様と友達で、青森の方ではなかったのか。その縁で、その友人と一緒に宮園さんが青森に来られたときは、一緒に呑むことになる。それもたびたびで、われわれの小説の同人誌に先輩も同人であったので、宮園さんに送っていた。わたしの書いた小説で、『ゴーシュ』というのがあり、手の不気味さを書いたものだが、それを宮園さんが気に入って、書評をわざわざわたしのところに手紙を書いて送ってくれた。

 

 宮園さんが亡くなったときには、青森の詩人仲間の神谷直樹さんが、どうしてか宮園さんと親交があったとみえ、青森の東奥日報の新聞に、「宮園真木さんを悼む」という追悼文を載せていたというので、ペンの同人中のの女史から、どういう人か知っていますかと、わたしのところにメールが来た。彼女の弟さんは筑摩書房に勤務していて、宮園さんは筑摩書房の確か役員もされていたと思うので、弟さんからのお伺いだった。神谷さんとは、青森県詩人連盟で長く一緒で、彼もわたしも理事だった。会合ではいつも顔は合わせ、わたしが青森の新町商店街のイベントを立ち上げて、街角ぽえむ展と、県下の詩人たちから生原稿をいただき、それを青森駅前からの商店街のパネルにずらりと展示した。その作品集を詩集にするに印刷所にいた神谷さんが安く引き受けてくれた。

 

 いまごろになって、どうして宮園さんのことを思い出したものか。それは、また急に詩に目覚めて、図書館にある、前に読んだことのある詩集など、内外のものすべて、読み返していたとき、ふっと彼の詩集もそういえば、前に読んだが、また読み返したくなり、図書館で探したが現代詩人全集も図書館には置いていなかった。それで、ネットで探したら、ある古本屋に一冊だけあった。定価そのままで、古本といっても高くなるものもあれば、下がるものもある。わたしが購入したのは、思潮社の新鋭詩人シリーズの5巻目の『宮園真木詩集』だった。なんと、あとがきに寺山修司が『宮園真木手稿』として長い賛辞を書いている。宮園さんは寺山と親しかったのか、それによれば、宮園さんは新妻と寺山修司の家を訪ねて、色紙に署名してと頼んだらしい。それが二人の結婚の見とどけ人になれということのようだ。寺山はあくまでも観客でありたいと書いている。とはいえ、宮園さんの才能を言語宇宙の中の言語戦争であり、一筋縄ではゆかないと「うまい現代詩」とまで言わせている。

 

 宮園さんはわたしと同じ年で、1951年に横浜市に生まれている。川崎高校卒で、上智大学に入り、中退後に早稲田大学に入り直して卒業している。寺山も早稲田だった。わたしは上智も早稲田も落ちた。

 彼とは呑みながら、いつも旅の話をした。彼も若いときはバックパッカーで、ヨーロッパ14カ国を歩き、日本一周し、ちょうど、わたしが来月はスペインとポルトガルとモロッコに行く話をしたら、自分もモロッコには若いときに行ったと話していた。それが今回買い求めた詩集に出てくる。「死を産む ーモロッコ」にうたわれた一節。

 

 養老院の都市

 毎日 青春という名の落とし物が

 遺失物係まで届けられて

 古いあこがれがモロッコを抱きしめる

 

 宮園さんはわたしの投宿したマラケッシュにいた。サハラ砂漠の端から老婆の涙を見て、カサプランカではハンフリー・ボガードの霧に包まれる。その話を聴いて翌月にアフリカに初めて足を踏み入れて、わたしはそこでメディナのスークの燕を詩に書いていた。

 詩集には、フィリピンのマニラのロハス通りから見る夕日、タガイタイの火山と湖が描かれていた。アテネでは少女と一緒にパンを食べ、と限りなく放浪の詩は続くのだが、それはこの本では抜粋にすぎない。わたしもバックパッカーで行った風景が重なる。

 宮園さんと呑んで話したときは、彼は仕事で忙しく、旅は遠い若き日の思い出になっていた。わたしとは逆だった。若いときはわたしは仕事が忙しく、とても旅行なんかできなかった。50歳過ぎてからのバックパッカーになって歩いた。詩人は若いときがいい。そういう感性で見て書いて歩きたかったと。そうしたら、彼は、老後にあちこち歩くのもいいなとぼそりと話した。どっちがいいものか。若いときに家族と仕事に縛られて身動きがとれないのと、老後にしがらみで動けないのと。わたしは彼に言った。いまも思い出に残る旅は若いときのものばかりだ。年老いてからの旅は感動がない。彼は若い感覚で旅を文字にした。それはわたしにはできない財産だ。それと宮園さんが歩いた1972年ころの放浪の詩を読めば、そのころはまだ日本人も少なく、外国はどこも古いものが残り、文明に汚染されていない姿を見せていたろう。そういうときに旅をしたかった。

 

 最後に宮園さんを見たのは何年か前のペンの会合の後の二次会の席であったか。彼は病気とは聴いていた。別人のように痩せていた。それから昨年の逝去までは知らなかった。現代詩手帖に訃報が載っていたとネットには書かれていた。同じ年でばたばたと亡くなっている。老後の自由を羨ましがっていた彼は、ようやくなにものにも囚われずに旅立った。本当の旅に、未知の世界にー。