いとこ会というLINEのグループを昨年末から作って、結構、盛り上がっている。それは、親戚の連絡網なのだ。叔父が亡くなったことも、それがないと分からない。親の代はほとんど亡くなり、その子供らのつきあいはいまもあるが、葬式とかでないと、居場所も電話番号、メルアドなんかも分からない。こうしたLINEで繋がっていれば、誰誰が死んだとか生まれたとか結婚したとか入院したと、そういう情報が全員に流れたら、お悔やみ、お見舞いにも行けるのだ。親戚といっても、どこまでつきあいがあればいいのか。ただ、従兄妹たちまでは、ちゃんと向き合いたいと思う。小さいころから遊んだり、実の姉妹のように育った関係もあり、いまだに、じじばばになっても、なになにちゃんと小さいときからの呼び名で、ちゃん付けのままがいい。集まれば、個人情報でも恥ずかしいことが思い出で出てきて、わたしが寝小便タレであったとか、意気地なしで、よく泣かされていたということが暴露されて、そういうこともあったかなとすっ呆ける。

 いまは、関西の従兄妹の住所もおふくろはアドレス帖に書いているが、電話もすることがない。兵庫県にいる。明石と西宮で、やはり親戚が亡くなったときぐらいしか連絡はしない。あまり遠いと、葬式に来られてもご迷惑かなと思う。関西から青森まで、新幹線乗り継ぎで、一日がかりで来て、ホテル宿泊もあるし、法事だ香典だと身内は中身が厚いから、出費も嵩張る。それで知らせなかったり、後でメールで教えたりするのだが、それはそれで事後報告と叱られたりするから、微妙な話だ。

 関東では、東京と千葉にいるが、そこは繋がっている。従兄妹の子供らというと、また広がるから、普段のつきあいはないが、従兄妹たちから聞いたりはしている。うちの息子たちとははとこという関係になり、従兄妹の子供同士のつきあいも仲がよければでてくる。

 

 と、いきなりメッセージをいただいた。東京は亀有の亡くなったが、従兄の娘のRちゃんからだった。わたしのブログをいつも読んでいるというから、こちらの情報は伝わっている。Rちゃんというと、昭和63年の夏にバイクに乗って青森まで来たので印象深い。彼女はまだ若く、二十代であったと思う。本人からそのことで返信すると、よくいつの年か分かりますねと返事が来た。それは、あの年は異常な、わが家の歴史では最悪の年であったから。家業の会社が秋に倒産、親子三人で破産した。ぎりぎりで経営難を乗り切ろうと最後の最後まで努力をしていた年だった。そんなときに、250ccのオートバイに乗って、Rちゃんは女バイカーで東北自動車道を吹っ飛ばして、ねぶた祭りで最高潮の青森市にやってきた。わたしは、誰か夏に来るのをいつも楽しみにしていた。というのも、仕事一辺倒で忙しいが、お客さんの接待が入れば、抜けられるからだ。あの年は、新商品の観光土産のお菓子をいくつも出して、テレビとラジオで宣伝して、わたしも化人(ばけと)というねぶた祭りの仮装で出る道化者たちに交じり、そのころ新発売した『青い山脈』という青森の石坂洋次郎の名作の四番目か五番目の映画化があり、工藤夕貴と舘ひろしの主演で上映されていたが、それに便乗した菓子を宣伝するため、ねぶたにわたしはセーラー服をうちの女子社員から借りて、メークもど派手にしてもらい、みんな社員たちが悪乗りして、カツラまで作ってくれて、それで商品のハンドビルと試食を持って、ねぶた祭りの沿道を配って歩いた。外商部の男子社員もわたしの相手で学生服を着て顔にメークされてペアで歩いた。あちこちで、観光客の団体からやんやの拍手で、酒を勧められ、浴びるように飲ませられた。ぐでんぐでんに毎日の運行では酔っぱらっていた。そういうときにRちゃんが来て、わたしの女装スタイルを見てびっくりしていたというより、大爆笑であったろう。まだ小さな息子たちは、これがパパかときょとんとした顔で沿道に立っていた。

 翌日は、わが家にねぶたの衣装が何組もいつも用意していて、お客のためにおふくろが着付けもしていた。Rちゃんとわたしと息子たちで、ねぶたに出陣した。そのとき、Rちゃんが化粧していたので、わたしは「ふーん、一応、化粧もするんだ」と言ったら、少しむくれていた。バイカーの女の子は男勝りと思っていた。三男はいま同居している末っ子だが、彼が五歳のときだから、いまの五歳児の孫と同じ年で、Rちゃんによくなついた。バイクに乗っている彼女の姿に小さいながら、憧れた。三男は成人して免許をとったら、400ccのバイクも買って乗り回していたが、それはRちゃんに触発されたからだと、いまもそう話しているから、かなりのインパクトでバイク好きになったのだ。

 

 次にRちゃんが青森に来たのは、従兄の両親と一緒に青森入りしたときだ。あれは親父が癌で半年という余命宣告を受けたときで、実際はそれから三年は生きたが、それを閉店セールと2008年のこのブログで書いたら、みんな身内が読んでいて、それならいまのうちに親父と会っておこうと、その年の大型連休から夏休みまでの間に次々に親戚が遠方から来青した。Rちゃん一家は新幹線で青森にゴールデンウイークにやってきた。わたしの車で墓参りに連れて行って、その近くの三内丸山遺跡にも案内した。閉店セールに間に合ったと、東京から来た姪なんかは、八甲田山など案内して連れまわしたが、北海道からも姪が来て、賑やかな年だった。だけど親父は死ななかった。死ぬ死ぬと行って死なないのは、閉店閉店と第一弾第二弾とそれが手のようにいつまでも閉店セールをしている商魂に似ていた。

 あのときは、Rちゃん一家歓待と、叔父たちもみんな集まり、わたしの知り合いの郷土料理店に連れて行ったと、ブログには書いている。こういう記録があるから、日付を覚えているのだ。

 

 Rちゃんは、あれからずっとブログを読んでくれているとは知らなかった。それでおふくろのことを知って、会いにゆきたいと、八月に酸ヶ湯温泉に行くので、その足で施設におふくろを訪ねたいと、聴いてきたのだ。どういう状態なのかと。食べるものは柔らかいものでないといけない。耳は遠いし目もよくないが、部屋にホワイトボードがあるから筆談したらいいと教える。Rちゃんは勤めていた病院は定年退職して、それから引き続き嘱託でか働いているとか。ええ? 定年? と驚いた。自分の年も忘れている。あのバイクに跨って青森まで走ってきたお姉さんが、もうそんな年と想像ができない。そうだよな、あの夏はわたしもまだ36歳で現役ばりばり。いまはすっかりとじいさんだが、あれから倍は年とった。

 Rちゃんもいとこ会に入れて、親戚の連絡網に入れたい。みんな知っているし、親が他界したから、今度ははとこたちも一族の会に入れて、情報交換をしたらいい。三男も親父になって、あの甘えた幼児ではなくなった。一度、三男とも合わせたい。どんな顔をするだろうか。