わたしが普段から、読書をするため、ノーパソを打つに行くところは老人たちの溜まり場が多い。図書館ではところによってはパソコンは禁止で使えないところもあり、新聞と雑誌だけ読んでくるが、そこにも閲覧コーナーにじっと座っていて、何を考えているのか分からないじいさんがいたりする。新聞は毎度、四紙に目を通しているが、そのひとつに老人がじっと立っていて、いつまでも動かない。わたしは他の全部の新聞を読んで、さらに昨日一昨日の分まで読んでしまうのに、そのじいさんは、一体、何を見ているのか。一ページから目が動かない。止まっている。こっちは忙しいから、早く読んでくれと言いたいが、そうして一時間もじっと読んでいるのかいないのか、きっと、認知も入って、活字が追えないのだ。よくいうのが、新聞も声を出して読んでいる人はいくらか来ている。声に出すのはいいことだが、それが頭に入っていない。ただ読んでいるというだけで、入らないからまた元に戻る。その繰り返しで、どうも先に進めないようなのだ。新聞を読むという習慣だけはボケていても忘れないで、いいことなのだが、そのスピードでは一日一紙も読めない。後の人が迷惑だ。

 

 ショッピングモールのソファにいても、スーパーやコンビニのカフェやイートインにいても、老人たちの溜まり場には違いないが、そこでも図書館と同じ認知老人とおぼしき人たちが座っている。別に、本を読むとか新聞を見ているとかスマホでネットを見ているということもなく、ただコーヒーの紙コップを前にして、何をするでもなく一時間も座っていて、前をじっと見ている。大丈夫ですかと、顔の前に手を翳してみたい。そういう老人が多い。一人でこういうところに来るのもわたしのように習慣になっているからだろうが、コーヒーを買ったりする普通のことはできている。外出しても家には帰れるのだろう。一人暮らしの老人であれば、家族がいないので、家にいても仕方がない。いまは夏場で家にいたらエアコンの電気代がかかるからと、こういうスペースに来てくつろぐのだ。わたしも節約のためにそうしてきた。イートインならお茶や冷たい水も自由に飲める。買い物もできるし、弁当も買って食べられる。どうせ買い物に出るのだから、何時間も涼んでいたらいい。ただ、一人暮らしでは話す相手がいないと、次第に認知が進む。その点、おばあちゃんの一人暮らしは仲間がいて、ばあさん同士が集いあい、喫茶店やレストランでくちゃべってばかりいる。話すことはボケ防止にはなる。女はそうしていつまでも女子会をしてつるむのに、男たちは一匹狼ばかりで、つるまないから、男は永遠に孤独なのだ。それで認知も多くなる。

 

 老後に趣味を持たないとと、いろんな本に書かれている。何もすることがなくなり、定年まで仕事仕事で、その社会から出されると、何をしていいか分からない。空白の世界にひとり追い出される。男は会社ではつきあいはあるが、隣近所とのつきあいもなければ、サークルに通うこともなく、さて、これから毎日、何をしたらいいのかとなる。仕事から卒業したら、それまでできなかったことをこれからは自由にできるとやればいいのに、いまさら、老後で何をしたってダメだとマイナス思考。老後だからできることがいっぱいある。わたしなんか、勝手に60歳で定年して、これから旅行するぞと、少し晩いバックパッカーであちこち旅をした。仕事の古本屋は息子に任せて飛び回る。おふくろを施設に預けたら、介護もしなくていいと羽根を伸ばした。だけど、時間がいっぱいあっても金がない。遊ぶにも金がいる。それでまた仕方なくいろんなバイトしたり派遣したりと、旅行資金を稼ぐために働くことになる。それもまた楽しかった。会社という檻の中からは見えない別世界ばかりで、学生時代のようにバイトで自由に世の中を見て歩けた。そういう経験も会社にいたらできないことだった。縛られることもなく、自由という空気を思いっきり吸うためには、なんでもしてみることだ。

 

 定年から一人暮らしでは急に世界が閉鎖される。話すこともなければ、言葉も忘れる。スマホはあっても、電話も来ないしメールも来ない。ネットワークの外にいる自分。やることがないから、一日ボーッとしている。それが不活発になり、体も思考も動かなくなり、生きる屍同然になってくる。そういう老人たちを多く見てきた。早く認知になる。わたしより年下でも、よく市の広報のスピーカーで行方不明になっている男の方と服装と年齢を全市内に流して捜索しているのが毎日のように入る。全国でそういう帰れなくなった老人が二万人も年間いるのだとか。

 

 市としてはそういう一人暮らしの老人を無視はできないと、先日もいきなりピンポンと、わたしのいるときにドアのチャイムが鳴り、首から身分証明カードを提げた福祉関係か民生委員のおばさんが来て、アンケートにご協力をと、聞いてきた。仕事はしているか、家族はいるか、運動はしているか。病気はないか、連絡先はと、孤独死もあれば、認知もあるし、何を食べて、どういう生活をしているのかとお伺いなのだ。ここは二世帯で、住民票にはわたし一人だけですが、息子一家と暮らしていて、わたしは家政婦みたいなものです。病院には毎月通っていますが、持病もなく予防のためです。太極拳はやっていますし、ウォーキングで歩いたりしています。健康そのものですと、食べている食事内容まで教えたら、おばさんは、それでは安心ですねと、帰られた。地域でそういう見守りがあるのは嬉しい。役所も本気でそういうことをしている。

 

 自転車で帰ろうとしたら、前を走っているじいさんの自転車がふらふらだ。道路の真ん中まで出たりしている。大丈夫か。自転車事故は神奈川県では平塚が一番多い。道路が昔のままに狭いこともあし、歩道が少ないし自転車専用レーンなんかとてもとれない狭い道ばかり。危ないよと教えたいが、車の免許でも実技をやらせているのと同じく、自転車もそうして老人のテストとあまり危ないと乗らないように指導はしなくてはいけないのではないのか。免許はいらなくても、あれではそのうち絶対に事故になる。自転車の危険運転だ。蛇行したくてしているのではなく、真っすぐ走れないのだ。そういう老人からは自転車は取り上げたほうがいい。家族がいればそうしたがいい。赤でも平然と横断するし、かなりの認知が入っている。息子も先日、仕事で小路の四つ角で止まって左右の確認をしていたら、80歳を越えているおばあちゃんの車にぶつけられた。そういう事故が何度もある老人からは免許は取り上げたほうがいい。これからの社会は認知老人たちでいっぱいになる。それはかなり危険な社会になりそうだ。