平塚フィルハーモニー管弦楽団の定期公演は毎度聴きに行っている。地元のオーケストラは応援したい。青森にいたときもそうで、青森市民交響楽団の定期演奏会にも毎回通っていた。年末の第九では、若いときに友人の高校の音楽の先生から誘われて、交響楽団の後方に立って、合唱団のバスで出たことがある。四か月の練習には休まず参加した。いまはもう声は出ないだろう。

 

 クラシック人口は減っているのか増えているのか。シニア世代が多いから、減少はしていないかもしれない。それでもたまにコンサートに行くが、満席ということはなく、どこもがらがらで寂しい。

 今回の33回定期演奏会のプログラムはルトスワフスキの小組曲とラフマニノフのピアノ狂騒曲2番、ブラームスの交響曲4番と割合と受ける内容だ。全席千円と安い。開演少し前にラフな格好で行ってみた。うちから歩いても行ける、文化芸術ホールで一昨年完成した広いホールだ。二階席の真ん中に座る。そこが一番音はよさそうだ。ホールも音響効果も計算されていて、ホール全体も楽器のひとつなのだ。それでいい音が聴こえるかどうかが決まる。

 若い人たちもいるが、多くはミドルからシニア層だ。それも満席に近い。三階席までいっぱい。写真は撮れないので、演奏が始まる前に撮った。それからスマホの電源を切る。

 

 プログラムを見ていたら、指揮者の田部井剛氏の略歴が書かれていた。毎度来ていたので、知ってはいたが、早稲田大学商学部卒業後、何を思ったか、東京音大指揮科に入り、それから東京芸大指揮科に入りなおすという面白い歩き方。エリック・ハイドシェックと協演し、ヤング・トスカニーニだと彼に賞賛されていたとあった。それで思い出した。フランスのピアニスト、ハイドシェックの演奏会を二十歳のときに彼女と二人で、新宿厚生年金ホールで聴いたのだ。若きハイドシェクのショパンのピアノ協奏曲で、忘れられないのが、曲の初めに、指揮者がタクトをおろした。と、演奏が中断した。出だしが揃わなかったというやり直しのハプニングは珍しい。初めて見た。そのときは読売交響楽団で、指揮者は誰であったか。ハイドシェックはシャンパンの醸造所の息子で、名家出だとそのとき読んで知っていた。

 

 オーケストラは総勢60名余り。それでも少し少ないか。人口26万人の平塚ではそれがせいいっぱいか。隣の茅ヶ崎にもフィルハーモニーがあるから、各地にアマチュアのオーケストラはあって、頑張っている。

 

 最初のルトスワフスキの小組曲は聴いたことがあるような。ポーランドの現代作曲家で、聴いたら、バルトークの弦楽四重奏曲4番やストラビンスキーの春の祭典にも似た曲想で、めりはりのあるリズミカルな演奏がわたしの好みだ。

 次のラフマニノフのピアノ協奏曲2番は名曲中の名曲だが、わたしはどちらかというと3番のほうが好きで、若いときは3番はベストテンに入っていたくらいだ。ビアニストは桐朋学園を首席卒業し、ジュリアード音楽院にも留学、国際コンクールで優勝するなどの経歴の持ち主の三舩優子氏。わたしの好きだった安川加寿子さんに師事していた。

 ロシアの作曲家の演目はウクライナの戦争後はどうなのか。文学も芸術もそのため排斥されるというのはおかしい。時代を含めてすべて否定はできない。

 アンコールで弾いた曲はなんであったのか。静かな小品を弾いたが、曲名が分からないと悔しがる。

 

 三番目のブラームスの交響曲4番はこれも名曲で、出だしは昔、昼メロがテレビでやっていたが、花王かポーラ化粧品提供か、愛の劇場みたいなのが奥さん向けに入っていたが、そのドラマの冒頭に流れていた。なんとなく、クラシック音楽が使われると、それが頭から離れない。   ブラームスは四曲の交響曲を作った。ベートーベンを意識していて、もうあれだけの名曲を書いたから、いいだろうと、最初は書かないつもりが、ベートーベンの第九を意識してそのオマージュから1番の交響曲を書いたから、どこか似ている。3番もいい。もっと書けたろうが、ベートーベンが9曲書いて死んだら、シューベルトもドボルザークもブルックナーもマーラーも9曲書いて死んだから、それは不吉な偶然としてクラシック業界では語り継がれる。だからか、10曲目を0番にしたり、番号をふらないマーラーの大地の歌もある。なにかそういうジンクスを避けたがったのか。

 

 アンコールはポビュラーなブラームスのハンガリー舞曲五番だった。拍手はいつまでも鳴りやまない。この平塚にもファンが多くいるのに安心する。いいものは続けてゆかないと。

 

 指揮者は満席に近い客席を見て、いままで10年、平塚に通いましたが、こんな満席は初めてと驚いていた。たまには生もいい。いつもラジオでクラシック音楽は聴いていた。クラシック音楽とは高校生のときからいまだに続いていて切れない。人はどれだけ多くの歌と曲を持っているかで、老後の優雅な時間ができる。