孫娘は中学三年だが、修学旅行があると、楽しみにしていた。神奈川県ではどこに行くのかと思ったら、関西で、奈良京都なのだ。二泊だから、それぞれに一泊ずつするものか。どんなルートでどこに泊まるのかは分からない。荷物をまとめていたから、今日から出かけのだ。新幹線で食べるおやつから着てゆく洋服など、買っていた。

 

 わたしが中学のときは、青森は北海道だった。やはり三泊ぐらいで、覚えているのは、青函連絡船で函館に出て、函館は通過。そこは小学生のときの修学旅行で、湯の川温泉一泊と決まっていた。それと大沼公園。中学はその先で、一泊目が洞爺湖、昭和新山を見て、登別では熊牧場、支笏湖から札幌に入り、定山渓温泉一泊。札幌市内は藻岩山に上ったか。それから時計台と羊ケ丘と定番のコースだ。帰りは夜行列車で函館まで戻った。

 

 高校の修学旅行が関西だった。九泊十日だったか。車中泊が夜行で二泊するから、大阪には寄らず、京都四泊の奈良一泊か、帰りに東京二泊だったような。どこをどう廻ったのか、忘れたが、京都と東京は一日ずつ自由行動があった。好きなところを見ていいと、いまなら危ないか。昔はそういう高校で、自分たちで個人行動も許された。

 京都で見たのは、これも定番で、清水寺、苔寺、銀閣寺、金閣寺、二条城、八坂神社、嵐山、東山ドライブウェイ。と思い出すのが、やはり時代か、比叡が見えるところではバスガイドさんが「♪花も嵐も踏み越えて、行くが男の生きる道……月の比叡を独り行く」と霧島昇の『旅の夜風』を歌って聴かせた。映画『愛染かつら』なんか田中絹代主演の戦前の映画だが、人気沸騰で、そのころもまだ歌われていた。いまなら恥ずかしい歌詞で、何恰好つけてんのと言われる。それとわたしの少年時代は舟木一夫の修学旅行の歌もヒットしていた。それが重なって聴こえてくる。

 それからどこを見たか、十円玉の宇治平等院も見た。京都の自由行動は、みんな学生服をロッカーに隠して、私服でパチンコ屋に行っていたし、旅館の部屋ではタバコを吸って酒を飲んでいた。先生がいきなり部屋のドアを開けたとき、何人かはタバコを口にして茶碗酒をかっくらっていたが、一瞬、フリーズを起こす。と、当時の先生だ、「火の始末だけはちゃんとしろよ」で終わりだった。先生たちはみんな知っていた。

 わたしは自由行動はちんちん電車で夜の嵐山の渡月橋の月を見たいと一人ふらりと行っていた。そのころも詩を書いていて、なんという詩を書いたか。片思いの人がいて、その子のことばかり思いつめていた。

 奈良では、大仏、薬師寺、唐招提寺、法隆寺だろうか。当時の薬師寺の住職が、有名な高田好胤さんだった。なんの話を聴いたのかすっかりと忘れた。

 

 東京に向かうのが初めて乗った東海道新幹線。そのころでも時速200キロと言っていたので、いまよりずっと遅かった。東京オリンピックで走った新幹線に何年かして初めて乗った印象は、揺れないということだった。東京では、最近工事が完了したのか、前の古いままの九段会館に泊まった。洋風と和風のデザインが取り入れられた建築物としては残すべきデザインで、中に入れたのがそのときが最初で最後。まさか、そのすぐ近くに老後住むことになり、隣の九段坂病院で入院手術することになろうとは思いもしない。

 都内は一日観光で、それもどこどこを廻ったのか。写真が集合写真もどこかに行ってないし、自分ではカメラを持って行かなかったので、スナップが一枚もない。多分、皇居二重橋、浅草、東京タワー、国会議事堂は見るだけ、NHKと代々木のオリンピック競技場、明治神宮とか、そんなところだろうか。

 自由行動では、親父が一日都内を連れまわした。どうも、わたしの修学旅行に合わせて東京出張したらしい。どこに連れて行ったのか記憶を辿ると、帝国ホテルでランチを食べさせた。そのときは、学生服に坊主頭で、外人さんたちがちらちらと見ていた。高校二年だが図体は大きく、大人に見えたろうから、きっと刑務所から出所してきた息子を親父がご馳走でねぎらっている構図を少年ながら想像して恥ずかしかった。それから銀座に連れて行って、やたらと写真を撮り、原宿のコロンバンの本店に挨拶、芝にあった商業界の会館に行って、倉本長治先生に会わせる。息子ですと紹介しても、このじいさんは誰だというようなものだ。

 九段会館に帰ったら、幼馴染が面会に来ていた。姉さんと一緒で、青森では小学生のときから仲良しでよく遊んだYだ。彼は転勤族の親と一緒にまた東京に戻り、中学と高校は文通していて、そのとき初めて再会した。その彼とはひょんなことで、一昨年電話をもらい、ネットでわたしの書いた本を見つけて、読みたいと北の街社に電話したら、もう完売したと在庫がないので、わたしの電話番号を聴いて半世紀ぶりに声を聴いた。去年の一月に青森に帰るときに茨城の彼の住む街に寄って一泊し、旧交を温める。先日も電話が彼からあり、今月末にまた茨城に泊まりで行くことになる。

 

 そういう修学旅行の思い出があった。そうそう、思い出したが、確か当時もまだ米をみんな旅館に持って行った記憶がある。米が配給のときの名残か。いまならいくらでも米は流通しているが、わたしの子供のときは、米穀通帳がまだあって、それで米が買えた。旅に行くときは米持参というのはいまなら考えられないが、学校ではそれがまだあった。

 帰りの夜汽車も寝台なんかではない。急行八甲田か十和田か、その普通車(二等車と言ったか)で、二人席が向かい合う座席に座って行く。眠れないだろう。足を伸ばすために、確か、ベニヤ板が画板として学校にいっぱいあったが、それを席の間に敷いて、みんな靴を脱いで足を互いに伸ばして寝ていた。その板も人数分なら相当な重さだったろう。いまから思えば、どうやって運んだものか。

 

 長い九泊十日の修学旅行で、わたしが使った小遣いはいまも覚えているが、たった1300円くらいだった。当時から、きちんと小遣い帖をつけていた。餞別ももらってきたが、がめつく土産も買わず、みんながアイスなど舐めっていたときに一人我慢して、あちこちで美味しいものを食べているときに、バスの中で待っていた。旅行鞄もみんな大きなのを持って行ったが、わたしは小さなショルダーバッグひとつだけ。そのときから、ケチで金を使わない旅行をしていた。で、家族からはよく土産も買ってこないと文句を言われていたが、餞別はきっちりと郵便貯金して貯めていた。お年玉から小遣いも使わないで貯金して、大学進学で東京に出たときは何十万か残高があり、それで東京に土地を買おうかと探したこともあった。ディズニーランドのできる舞浜の近くの土地を不動産屋で見て歩いたのが十九の年だ。あのとき買っておけば、かなりの値がついたろう。

 それはともかく、孫娘の修学旅行で思い出したことを書いた。土産はいらないが、京都ならこちらでも売っている生八つ橋が喰いたいな。

 

 二泊三日の修学旅行から孫娘が帰ってきた。後で聴いたら金閣寺も銀閣寺も行かなかったという。一泊で一日だけの京都では廻れない。それと後日、宅配便で大きなスーツケースが配達された。持ったら重い。二泊ぐらいの旅行なのに海外旅行並みだ。何を持って行ったのか。それと旅先から宅配便が送るなど、いまどきの子なのかなと宅配便のお兄さんに言ったら苦笑い。パパと生八つ橋の土産を食べながら、いまの中学生はそんなものでしょと話していた。